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独鈷城② ~ 没落と反骨

 独鈷城の最終話です。

n 388

 米倉の塁壁を登って行きます。

 浅利勝頼は、秋田氏からの独立を図りますが、カエッテ秋田氏により謀殺されてしまいます。

 1583年のことでした。

 勝頼の子、浅利頼平は津軽氏の庇護を受けますが、比内地方の支配権は秋田氏が握り、比内地方を統括する城を大館としました。

n 389

 米倉(二の郭?)です。

 1588年、秋田氏が大館城代として置いていた五城目氏が南部に内通!

 秋田氏は、反南部で立場を同じくする津軽氏に援軍を要請し、津軽氏は浅利頼平の帰還を条件にこれに応じ、南部勢を比内から駆逐しました。

 浅利頼平は、比内に帰還、執念深いですね。秋田氏の配下として同地を治めます。

de_20100912164043.jpg


 1590年には、豊臣秀吉が小田原征伐を行い、それに続く東北仕置きで、全国制覇を成し遂げます。

 秋田氏は、豊臣大名として認められますが、比内地方は太閤蔵入地となった為、浅利氏は蔵入地の代官となりました。

n 390

 再び堀に下りて、向かい側の塁に向かいます。

 「十狐城」の表示があります。両方、「とっこ」と読み、標記が並存しています。

 1598年、蔵入米の未納問題が生じ、浅利氏は没落してしまいます。

 浅利氏の動員兵力は400程度であったとのことです。

n 396

 本郭です。

 1602年、秋田氏は茨城県宍戸へ移封となり、かわりに佐竹氏が秋田へ入ります。

 その際、浅利旧臣が蜂起します。反骨と執念ですね。

 佐竹家臣の赤坂氏、小場氏が鎮圧軍として派遣され、正に戦闘が始まらんとするとき、浄応寺の住職僧玄が、間にはいり、和睦がなされました。条件は不明ですが、旧臣達に何らかの扶持か特権が与えられたのではないでしょうか。

n 394

 この城の特筆すべき点は、やはり、本郭と米倉の間の、幅と長さがヤタラナ堀? いや、もうこれは帯郭と呼ぶべきか? ・・・でしょう。

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