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岩崎城② ~ 関ヶ原に再興をかける

 岩崎城の最終話です。

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 三の丸から本丸にかかる橋が復元されています。

 1600年10月、関ヶ原の戦いが勃発すると、伊達政宗は和賀氏を旧領に派遣し、蜂起させます。

 伊達政宗は何故そのようなことをしたのか? 私的妄想を・・・

①奥州の関ヶ原(上杉VS最上)のキャスティングボートを握りたかったから。
「西軍の上杉」と「東軍の最上」が戦いをはじめる。そこに伊達勢だけが駆けつける。伊達だけがキャスティングボートを握る形にしたかった。そこで和賀氏に蜂起させ、南部氏を釘付けにし、南部氏を奥州の関ヶ原に参戦出来なくしてしまおうとしたわけです。

②あわよくば南部領を蚕食したかった。
 中央の関ヶ原が長期化した場合、中央政権がなかなか成立しない、成立しても弱体化する可能性がある。戦国時代、切り取り次第の復活となれば、遠慮なく和賀氏旧領を併呑してしまおうというわけです。

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 橋の上から堀を見おろしました。

 ヤブで解りにくいのですが、充分な幅と深さを感じました。

 和賀氏本城の二子城には、当主の義忠が籠城。岩崎城には弟の忠親が籠城し、岩崎氏残党が支えました。

n 093

 本丸には、「模擬天守っぽい公民館跡」が、あります。老朽化により立ち入り禁止となっています。取り壊す予算がないのでしょうか?


 和賀勢は、北上し花巻城を攻めますが、抜くことは出来ませんでした。逆に退却につけ込まれ、二子城を失い、当主の義忠も岩崎城に入りました。

n 092

 本丸にも土塁が残っています。

 籠城軍の士気が高かった為か、伊達の動きを警戒した為か、三戸南部氏は早期の岩崎攻略を断念し、冬の間は包囲するだけにし、雪解けを待って総攻撃することとしました。

 このとき「包囲軍の浄法寺修理が、包囲を子に任せ、正月を居城に帰って過ごしたので三戸南部の怒りに触れたと」の話が残っていますが、事実かどうか定かではありません。浄法寺氏は領地を没収されてしまうのですが、没収の理由をあとづけしたのではないかと思われます。

de_20100905150925.jpg

 古図面によると、本丸下に二の丸があったようですが、現状からは確認できませんでした。

 年は明け1601年4月、三戸南部による総攻撃が開始されます。

 関ヶ原の戦いは1日で終わってしまい徳川幕府体制が確立したため、伊達政宗は和賀氏を支援することが出来ませんでした。岩崎城は間もなく落城してしまいました。

n 079

 西側から見上げたた本丸です。

 和賀義忠は、江戸へ護送される途中に死亡。伊達政宗が口封じのために暗殺したとの説が有力です。

 和賀氏にとっては、お家再興、乾坤一擲の大勝負でしたが、伊達政宗によっては、捨て駒の一つに過ぎなかったのでしょう。

 和賀一族は没落、四散し、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。

 岩崎城は、幕府より特例の支城として認められ、三戸南部家臣粕山氏が入城したとのことです。

 ホームページ 「土の城への衝動」
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