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岩手県駒ヶ嶺館 ~ 浄法寺分流の苦難

中世城郭愛好家土の城派、武蔵の五遁です。
平成22年8月14日、駒ヶ嶺館に行ってきました。

駒ヶ嶺アク

岩手県二戸市浄法寺町駒ケ嶺舘にあります。
「鎌倉時代より、安比川流域を治めた浄法寺氏」の分流、駒ヶ嶺氏の居館です。

女房の実家が駒ヶ嶺家であることから、2年越しで探しあてました。

n 141

 安比川です。

 高速道路八戸道を浄法寺インターで降りて、国道6号を南西へ進み、浄法寺市街を抜け、安比川を渡ると、そこは駒ヶ嶺氏の持ち分でした。

n 135

 旧駒ヶ嶺村に入りました。

 北側から撮影しました。一面の田んぼに突き出る台地が、遠望できます。

 駒ヶ嶺館です。

de.jpg

 イメージ図は、南側からのものです。

 三角形の台地の先端に館を築いていたようです。

 背後の堀等は見当たらず、あまり防御性を考えていなかったようです。

n 136

 台地の先端にたどりつきました。

 比高は6メートルほどでしょうか?

 民家があるようなので侵入は遠慮しておきました。

 浄法寺氏と、南部氏とは盟友関係でしたが、豊臣秀吉による全国統一により、南部家家臣の位置づけとなりました。駒ヶ嶺氏は、三戸南部藩家臣浄法寺氏の家臣との位置づけとなりました。

n 137

 南側の塁壁です。

 浄法寺町史によりますと。

 三戸南部家は、領内を親族衆で固める政策をとり、親族衆以外の士族を粛正しました。

 浄法寺氏も例外ではなく、浄法寺修理の代で断絶となり、一族は離散しました。駒ヶ嶺氏も遠い親戚を頼って故郷を離れたのでした。1603年のことでした。

n 139

 背後の台地に登って、館のあった方向を見おろしました。

 浄法寺修理の三男は、分家の松岡家に寄寓していましたが、和賀郡の開墾に成果を上げました。

 その功により松岡家は三戸南部藩より、士族に取り立てられ、(浄法寺の名乗りは許されませんでした)浄法寺地域での開墾も許可されました。

 そこで、松岡氏は浄法寺の旧臣を呼び戻し、共に開墾にあたりました。

 その旧臣の中に駒ヶ嶺兵右衛門もいました。

 開墾は成功し、松岡氏の斡旋で駒ヶ嶺氏も士族に取り立てられました。1669年の頃と考えられています。66年ぶりの士族への復帰でした。

 女房の実家に残る駒ヶ嶺家の系図では途中に途切れがあり、その途切れは士族ではなかった期間を示すものと思われます。

 また、同家系図で駒ヶ嶺氏は、三戸南部氏を祖とすると記されており、三戸南部に取り立てられる際に、三戸をはばかり、祖である浄法寺姓を捨て、家系図を書き換えざるを得なかったのだと推察いたします。

n 140

 しかし、三戸にほど近いこの地が豊かになったことに目をつけた三戸南部氏は、すぐに浄法寺一族からこの地を取り上げ、三戸親族衆を配置します。

 駒ヶ嶺氏には替え地として鹿角郡に僅かな所領が与えられ、駒ヶ嶺氏は、再び故郷の地を去ることとなりました。

 夏祭りに沸く、駒ヶ嶺集落の表札を見て廻りましたが、駒ヶ嶺の表札はミアタリマセンデシタ・・・

 三戸により、追い払われたのですから・・・

 駒ヶ嶺氏はその後も鹿角にて南部家臣として存続しますが、戊辰戦争にて南部藩が敗れたため、所領を没収されました。

 ホームページ 「土の城への衝動」
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Comment
Re: 千葉氏について
田山様 ご来訪ありがとうございます。

 千葉氏や相馬氏とも関係があるようですね。

 畠山一鶯氏著「みちのく姓氏」を今一度読み返してみました。

 鹿角、浄法寺付近には他に、児玉、金沢、熊谷、三浦、和田等の士族の系列があり、関東から移ってきたようです。
千葉氏について
早々の情報ありがとうございます。千葉氏の氏神は、妙見菩薩とあります。別名北辰妙見菩薩とも言われています。Wikipediaでは、仏教の北極星信仰の一つだそうです。千葉氏の九曜紋もこの信仰から作られたようです。慶長16年(1611年)というと徳川家康が征夷大将軍に任ぜられるのが慶長6年(1603年)で江戸時代初期と思われ、既に奥州は南部氏と伊達氏統治で確定された時期と思われます。九戸の乱が天正19年(1591年)ですので浄法寺氏は散りジリになっています。その後の統治者が千葉氏系相馬氏となったと思われます。それから先に「八幡神社文書」と記載しましたが「八坂神社文書」と訂正いたします、すみませんでした。
因みに茨城県鉾田城主田山東市正保胤は天正14年(1586年)に没となっているので慶長年には、畠山氏一族の勢力は、二戸付近を離れていたと思われます。
浄法寺町、鹿角街道沿いにある三社妙見大明神と呼ばれる神社があります。実際に見たことはないのですが、グーグルで所在地があるのが確認できました。

こちらの神社は、慶長16年、相馬家当主相馬利胤による建立によるものです。福島の相馬市にある神社を分霊して建てられたものです。

福島県相馬氏の神社を分霊してまでなぜ浄法寺に建てられたのか、これが何を示しているのかは定かではありませんが、慶長時代までは本家の相馬氏と何かしらの交流があったのかもしれません。

また、まだ詳しく調べている最中ですが、二戸市近くに下斗米という地名があります。こちらも浄法寺氏の領土だったらしく、二戸下斗米を治めていた下斗米氏も千葉氏分流相馬の分家のようです。浄法寺家臣団には相馬氏とのつながりがあったのかもしれません。

浄法寺町に行く機会があれば三社妙見大明神見てみたいと思っています。

ありがとうございます。
茨城県の田山です。 「東北の城」HPを拝見させていただきました。すべてをを見るには時間が必要ですが関連しそうなところを拝見しています。城(館)の鳥瞰図の作成には、時間と労力がいかほどか、またそのための現地視察を思うと感動に絶えません。そして東北という郷土に対する思いが伝わってきます。外部からは分からない情報も沢山記載されていますのでこれからも利用させていただきます。もし何かの機会に「田山」郷という地名が何時頃から呼ばれたのか分かりましたらついでにこのPHに記載いただければ助かります。当方は、「東国における一武士団-北武蔵の安保氏について」という文献に正中二年(1325年)12月6日付の安保信阿譲状案(八幡神社1887号)に陸奥国鹿角郡東根内田山郷と記載があり、この時点では「田山」といわれていた様です。
「だんぶり長者伝説」にある平又地区は、昔は「平間田」と書いたらしいので田山も「田谷間」と書かれたものが変化したのではと危惧しています。昔より「田山」で有ってほしいのですが。重ねて東北に関する情報に感謝申し上げます。
Re: 浄法寺氏家臣団について
田山様 ご来訪ありがとうございます。

 「よねしろ考古」によりますと、源頼朝の東北遠征に従軍した成田氏が戦功により、鹿角を与えられた。

 成田氏は、親戚関係にあった阿保氏とともに鹿角へはいったとのことです。

 鹿角盆地には阿保氏系の城郭が多く残存しています。

 よろしかっらた、私のホームページの「東北の城」コーナーをご覧ください。

 八幡平市田山地区と、鹿角市は境界を接しているため、長い歴史の中で、阿保氏の勢力と浄法寺氏の勢力が行き来した可能性はありますね。
浄法寺氏家臣団について
茨城の田山です。このPHに質問したことに喜びを感じています。私が田山とはどこから来たのかを調べ始めたのは、意外なことです。今より40年ほど前、私の祖父が亡くなり、その告別式の時、菩提寺の和尚さんより田山姓について説法されました。記憶に残ったのは「田山は、桓武平氏流畠山氏より出ました」という事だけです。ここ60歳を過ぎてから「本当か?」と疑問に思ったことからでした。現在はネット社会でもありいろいろの文献、図書の所在を検索できることより茨城県内に限られますが文献の確認、墓石の確認作業をしています。既にご存じかもしれませんが浄法寺家臣団も下記アドレスに掲載されていました。ここからアクセスできるか分かりませんが下記の様です。
http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=57229
浄法寺家臣団【じょうほうじけかしんだん】
松岡尾張守、松岡助四郎、松岡惣左衛門、松岡七右衛門、松岡民部政興、松岡内蔵助政成、松岡武兵衛政体、松岡万三郎政供、太田源四郎忠族、太田源四郎忠能、太田源兵衛忠則、太田源太夫忠継、駒ヶ嶺内膳保忠、駒ヶ嶺四郎太夫忠武、駒ヶ嶺治郎忠則、吉田忠近忠徳、吉田作七忠行、田山八兵衛忠旦、西舘将監忠珍、西舘四郎右衛門忠茂、田山八太夫重防、五日市兵庫忠教、五日市左近忠岩、有居忠兵衛、大森十太夫忠善、大森弥兵衛忠今、大森庄五郎忠安、畠山左馬助、畠山孫七忠保、中川原小兵衛忠有、畠山善蔵正和、駒ヶ嶺喜成正国、駒ヶ嶺善蔵正勝、畠山甚兵衛光元、畠山治右衛門光成、浦田久六光正、杉村六左衛門光寛、杉村六郎右衛門光福、杉村六左衛門光昌、杉村次郎右衛門吉矩、野続甚五郎久業、野続喜膳久徳、野続慶卜一久、野続源内一光、松岡藤右衛門正吉、駒ヶ嶺兵右衛門正家、駒ヶ嶺兵左衛門義利、駒ヶ嶺武兵衛好忠、大森七右衛門盛常、大森五郎右衛門盛定、大森甚右衛門盛秀、大森助十郎盛重、大森利兵衛盛光、大森助之丞忠時、佐藤助左衛門正良、佐藤庄左衛門良正、佐藤庄左衛門近良、佐藤庄兵衛政常、佐藤専右衛門正道、佐藤庄之助正房、安ケ平喜右衛門義重、安ヶ平喜右衛門義範、安ヶ平善右衛門義配、関与平治定政、関与八郎定久、関七之助定。
私は、これを不思議に思っています。浄法寺氏から出た支族は4〜9人が記されていますが田山氏は2人だけです。作為的造作とすれば何のために? ここに田山氏の家紋が33種類もある鍵があると思っています。例えば田山郷に居住した氏族は、畠山氏だけでなく秩父氏一党ではなかったと。「吾妻鏡」では、この田山郷一帯は、武蔵国横山党の成田氏に与えられます。畠山重忠指揮いる先陣の大串重親の一党です。
名前の「重」の字は、秩父氏が代々引き継ぐ字ですのでこれも秩父氏一族と思われます。次に秩父氏が田山郷で何をしたかったのかという事になります。それは地下資源、特に金銀銅の発掘と軍用馬の牧、森林資源ではなかったかと考えました。田山郷には、馬場下タ、馬揚上タという地名が残っています。そこで駒ヶ嶺氏、大森氏が浮かんだわけです。稲作は吉田氏、太田氏です。因みに水戸徳川は大能の牧を作ります。田山郷と同じ様な地形の山奥です。ここも何度となく経営難で廃止されています。同じ様な事で田山氏、駒ヶ嶺氏も山を下りてきたのではないかと推測している次第です。
その後田山郷は、安保氏に変わります。2012年電話帳では田山郷には、安保姓の方が数多く見受けられます。田山姓の方は見かけられませんでした。長々と記載しましたが多方向の文献を見ると作為的造作も真実が含まれていると思われます。



Re: 田山姓について
田山様 ご来訪ありがとうございます。

 私は家紋に詳しくないので、研究熱心さに頭が下がります。
 
 歴史分析は諸説あり、何が正しいかは不明ですが、求め続ける
ことに意義があるのではないかと、私は感じています。

 諸説のひとつとして・・・

 畠山一鶯著「みちのくの姓氏」には・・・

 「浄法寺畠山氏の直系は浄法寺氏を名乗り、庶流は周辺の郷村
 を領有して、寺田、田山、松岡氏を分出して、さらに松岡氏か
 ら、大田、吉田、駒ヶ嶺、西舘、大森の五家が分家したといわ
 れています。」と記されています。
田山姓について
茨城県の田山です。沢山の情報を頂きありがとうございます。皆様にお礼申し上げます。駒ヶ嶺氏の家紋が五七桐と三つ柏という事で桓武平氏良文流で有る事は間違いないでしょうね。
因みに私の実家である茨城県大洗町の家紋は、「丸に左三つ巴一引き」紋で平安紋帳にも江戸紋帳にもありません。茨城の田山姓では「左三つ巴」「丸に月一文字」「丸に左三つ巴一文字」などもあります。私的には、これらを三つ巴系と呼んでいます。
因みに田山姓での家紋は、現在までの調査では、33種類あるようです。盛岡市では、「丸に九枚笹」「五三桐」「武田菱」など 秋田県大館市は、「丸に四ツ目」「丸に隅立て四ツ目」「丸に梅鉢」、熊本県では、「上り藤」「下り藤に三つ巴」等々です。茨城県だけでも30種を確認しました。これをどう解釈するかを現在試行錯誤しています。
以下は私考です。
桓武平氏の国香流から常陸平氏(大掾氏、多氣氏等)諸氏を出します。一方良文流からは坂東平氏(秩父氏、千葉氏等)が出ます。秩父氏から畠山氏、伊地知氏を、千葉氏からは相馬氏を出します。相馬氏は千葉県相馬御厨を元にします。
よって相馬氏も畠山氏も同族ですね。しかし家紋は異なります。畠山氏は「五三桐」を表紋とします。相馬氏の家紋は、「九曜」と「繋ぎ馬」です。この九曜紋は千葉氏の家紋です。よって相馬氏は、千葉氏系で有る事が推測されます。
九戸氏も「九曜」と「丸に三階菱」を使用したようですのでこれも千葉氏・小笠原氏系と思われます。
何れにしても、田山姓、駒ヶ嶺姓は、源頼朝が奥州合戦で勝利し、参陣した関東武士団に奥州藤原氏の支配領を恩賞として分け与えた事より始まることは間違いなさそうです。
どうやら「吾妻鏡」にある畠山重忠に先陣として同行した長野氏、大串氏、榛沢氏、本田氏、柏原氏と武蔵七党の横山党、丹党に関係した一団が関連していると思い調査をしています。

Re: タイトルなし
 HP拝見しました。

 南北朝期、北畠氏が霊山城で戦い、敗れて、津軽へ逃れてきた。
 北畠氏は浪岡城を築き、浪岡北畠氏となった。
 霊山城近くに相馬氏の領地があった、相馬氏の一部が北畠氏に従い、津軽に移った。
 その後、相馬氏の一部が、理由はわからないが、浄法寺領駒ヶ嶺に入り、駒ヶ嶺氏
を名乗ったという筋書きのようですね。
 浄法寺駒ヶ嶺の地は、浄法寺宗家の本領に接していますので、よほどの関係でないと
入る・・ 与えられることはないですね。
 浄法寺家に相馬家から、婿養子が入ったとか? いろいろと妄想は広がります。
 異説のご紹介ありがとうございました。
 いずれにしても、南部領内の歴史は三戸により大々的に改変されていますので、真実
が明らかになる日は、来ないのではないかとも、感じています。
  
ご回答ありがとうございます。

私の読解力が不足していた部分があったと思います。申し訳ありません。

青森県蓬田村のHPに村のあらましがありまして、村史の3章に少しだけ記載があります。どこまでが本当かわかりませんが、ご興味頂けたら見てみて下さい。
Re: 記事に関して
駒ヶ嶺の苗字を持つ者様 ご来訪ありがとうございます。

「浄法寺町史」の記述をもとに記事を作成しました。
 しかし、歴史や家系は捏造されるのが常です。
 
「浄法寺町史」の記述も捏造の記録を元にしたものであるかもしれませんね。
 相馬系駒ヶ嶺氏が、浄法寺氏の組下になる過程で、浄法寺の分流を名乗るようになった可能性も否定できませんね。
記事に関して
駒ヶ嶺の苗字を持つ者です。親戚は浄法寺町出身の方も多く、もしかすると幼少期に親戚から聞いた話が私の記憶違いでなければ、奥様とは遠い親戚に当たるかもしれません。

駒ヶ嶺は畠山氏の子孫との記事になっていますが、おそらく相馬氏の分家である可能性か高いです。直接の畠山氏の子孫ではないと思います。

浄法寺氏は畠山氏の三男重慶の遺児がおり、子孫が浄法寺氏と名乗ったとのことです。諸説あると思いますが、確か浄法寺町の教育委員会の見解だったと思います。駒ヶ嶺は畠山氏と直接の血縁はないと思います。

現に、福島県相馬市には駒ヶ嶺の地名も今もなお残っており、現在の相馬氏子孫の家系図に一部駒ヶ嶺の地名の記載があり、相馬氏の分家の者が浄法寺町に移り住み、駒ヶ嶺と名乗ったのではないかと解釈できる文言があります。

私は、直接原本の家系図を見たわけではないのですが、一部家系図が見れるサイトもあります。ご興味頂けたらご連絡頂ければと思います。よろしくお願いします。
Re: 駒ヶ嶺家の家紋を教えてください
田山様

 女房の実家に家紋のある品はありませんでしたが、少々調べてみました。
 畠山一鶯氏著「みちのく姓氏」によりますと・・・
 駒ヶ嶺氏の家紋は、五七の桐、三つ柏が用いられていたということです。
 ちなみに田山氏は、四つ目結びであるということです。
Re: 田山
М様 ご来訪ありがとうございます。

 田山さんは、いらっしゃらないようなので・・・
 もしかすると、М様は浄法寺系である可能性がありますね。

 世の中狭いですね。
田山
横矢失礼します。
小生の本家は田山にあります。
祖父の出身地です。
ご先祖の話しを聞いた事が無いのが悔やまれます。
ご先祖は田山さんの家人だったかも知れませんね?
Re: 駒ヶ嶺家の家紋を教えてください
田山様 ご来訪ありがとうございます。

 女房の母親は既に身罷り、詳しいことはわからないのですが・・・
 戊辰戦争で奥羽列藩同盟が破れ、南部藩が取り潰しになった際、駒ヶ嶺家は没落したようです。
 事実かどうか定かではないのですが、女房の母親は生前「戊辰戦争のあと、駒ヶ嶺の家の者から切腹させられた者が何人かあった。」と、言っていました。
 以後、新政府軍の弾圧を恐れ、元南部藩士の家系であることを隠し、過ごしたようです。
 元南部藩士とわかる家紋の入った品なども処分してしまったのではないでしょうか?
 遺品を整理しても、家紋の入ったものは見当たりません。
 家系図だけは、大切に保管されていましたが・・・
 お力になれず、申し訳ありません。
駒ヶ嶺家の家紋を教えてください
茨城県の田山利行と申します。 田山姓は、桓武平氏畠山重忠から浄法寺へその孫久光が現八幡平市田山を所領として名乗ったのが発祥とされています。現在日本の田山家で使用する家紋について調べているところですが 浄法寺氏は田山姓以外に大森氏、松岡氏、駒ヶ嶺氏を出しています。そこでこのブログをヒットさせました。可能であれば駒ヶ嶺家の家紋をご連絡いただけると助かります。茨城県の田山氏も奥州を追われた一族ですのでその発祥の一つである駒ヶ嶺氏の家紋と田山家家紋を比較したいと考えます。宜しくお願い致します。
「こまがみね」一族は、
 駒ヶ嶺
 駒ヶ峯
 駒ヶ峰
と、いろいろですが仲良く行きましょう!
Re: 突然お邪魔します
nemigamacoさん。御来訪ありがとうございます。

 駒ヶ嶺家の方ですか? 女房の家系ととこかでつながっているのでしょうね。

 駒ヶ嶺家は、畠山重忠公を始祖に持つ、由緒正しきお家柄です。

 よろしかったら、「土の城への衝動」→「史跡などの部屋」→「畠山重忠館」をご覧ください。

 「駒ヶ嶺館」の記事作成に当たっては、数年の調査と資料収集を行いましたの、御覧頂けるのは大変嬉しいです。

 こちらこそ有難うございます。

> 初めまして
> わたしも駒ヶ嶺姓です!
> 祖父が浄法寺出身なのですが
> その昔、母を始めとした自分の娘たちに
> 『駒ヶ嶺家はな、士族だったんだぞ』と語って聞かせていたそうです
>
> ふと調べ物をしていてこちらのブログに辿り着き
> 母と二人で楽しく、そして興味深く読ませていただきました
>
> ありがとうございました
突然お邪魔します
初めまして
わたしも駒ヶ嶺姓です!
祖父が浄法寺出身なのですが
その昔、母を始めとした自分の娘たちに
『駒ヶ嶺家はな、士族だったんだぞ』と語って聞かせていたそうです

ふと調べ物をしていてこちらのブログに辿り着き
母と二人で楽しく、そして興味深く読ませていただきました

ありがとうございました
こちらこそありがとうございます。
随風さま。ご来訪ありがとうございます。
四散した駒ヶ嶺一族の中何は、七戸へ移った方もいらしたのですね。
駒ヶ嶺家は分流とは言え、畠山重忠公の流れを汲み、鎌倉から明治維新まで存続したのですから、苦難があったとは、それでも恵まれた一族なのかも知れません。九戸、和賀、葛西、大崎の方々に比べると・・・
ありがとうございます
駒ヶ嶺の姓を持つ者です。
ご調査ありがとうございます。

私の父の実家は青森県七戸にあり、本家からの年賀状は「七戸城内」という住所になっていました。

父が亡くなる前に家族で七戸を訪れましたが、七戸城址の案内板には駒ヶ嶺のコの字も入っておらず、拍子抜けした想い出があります。

色々複雑な経歴を持った一族ですね。
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