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西明寺城③ ~ 笠間氏との抗争

 西明寺城の第三話です。

 次に西明寺城に関する記録があるのは、1576年の修築工事です。長篠の戦いの翌年です。
 鉄砲の大量導入により、城の構造に手を加える必要が出てきたのでしょうか?


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 改修を加えられたのは、東郭周辺だと思います。
 東郭の東側は、8メートルの塁壁で守られています。
 東郭から、二の郭を攻めようとすると、ここも8メートルほどの塁壁があり、攻城兵は二の郭からの射撃にサラサレながら、北郭方向へ迂回しないとなりません。
 守りを固めた東側は佐竹領との境界を見渡せます。佐竹氏と主家宇都宮に反旗を翻す、準備だったのかもしれません。


m 031

 本郭から、二の郭へ抜ける小口です。
 道の左右は、単なる茂みのように見えますが、実は土塁です。


 さて、この回は、益子氏と笠間氏との抗争を「関東古戦録」よりの抜粋にてレポートします。

 常陸の国笠間城主の笠間氏は、古代より名のとおった一族で、宇都宮家の家臣であった。
 ところで、笠間領の門毛村は、益子領と隣り合い、常に境目の争いが絶えなかった。


m 032

 二の郭です。削平がアイマイデ、北側にダラダラ下っています。

 ある時、両方の土民同士の争いとなり、益子方の百姓が三・四人打ち殺されるという事件がおこった。
 笠間方は、橋本の砦に谷中玄蕃充、益子方は、富谷城に加藤大隅守が、それぞれ立て篭もって境目を守ったが、その間は僅か一里ほどであった。
 

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 二の郭から、東郭へと塁壁を降りるMさんです。ここを鎧を着て登るのは不可能であったことでしょう。

 笠間と益子は、お互い相手の隙をうかがい、時々小競り合いがあったが、笠間の方が強くて毎回勝っていた。
 この状態が3年も続いたが、宇都宮からは何の仲介も無かった。


m 033

 二の郭の塁壁の下には、堀がウガタレテイマス。

 益子は、「これは笠間と芳賀(宇都宮家重臣・飛山城主)が手を組んでいるため」と悪く考え、結城晴朝に助けを求め、およそ五千余の地を進上して、幕下になると申し入れをした。

 8メートルの塁壁へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」


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