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西明寺城② ~ 南朝の拠点とナル

 西明寺城の続きです。

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 三の郭にはいりました。ケッコウ広いです。土塁に囲まれています。

 さて、西明寺城の創始に関する明確な資料はありません。
 この回は、私なりに資料をあさった結果の極私的見解(妄想)を綴ります。

 平安期、益子氏は、益子町、真岡市南部、上三川町のあたりの支配権を確立し、益子古城を造営した。
 鎌倉期になると、益子城に拠点を移し、有事の要害として、西明寺古城を築いた。


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 三の郭の土塁に登ると、水の手の池と、駐車場に停めたシビックハイブリッドを見おろすことが出来ました。

 南北朝時代になると、関東も騒乱が続きました。
 南朝は、茨城県の「小田城」を中心に、北朝への抵抗を続けていました。

 益子氏は、北朝の忠臣として各地を転戦していました。1339年、南朝は益子氏の留守を見計らい、益子城を奪取します。(この時の資料に西明寺城の名はありません。)益子領を手にした南朝ですが、周辺は北朝の武将ばかり。北朝の逆襲に備えなければなりません。

 益子城は岡城で守りにくい。

 西明寺古城は要害ではあるが、狭く、大軍は収容できない。


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 本郭の小口へ向かう、Kさん&Mさんです。

 1341年の資料に、南朝方の拠点として、小田城、伊左城、真壁城、大宝城、関城、そして西明寺城が記されています。
 つまり、1339年から、1341年までの間に、南朝が西明寺城を築いたのではないかと推察します。


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 抵抗を続けていた南朝ですが、同年11月、小田城の小田治久が北朝に降ると、急速に勢力を縮小させ、1343年には、関城、大宝城、伊左城が落城し、関東の南朝拠点は消滅したのでした。
 西明寺城落城の記録は無く、戦線縮小の過程で放棄されたのではないかと推察します。


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 本郭です。

 南朝が、西明寺城を放棄すると、益子領は、益子氏の手へと戻ったようです。

 笠間氏との抗争へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」
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