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龍ヶ谷城② ~ 用土新左衛門の苦悩

みなさん、こんばんわ。

中世城郭愛好家土の城派、武蔵の五遁です。

龍ヶ谷城の続きです。

image4503476[1]

 イメージ図②です。

 主郭は狭く、二の郭の削平はあいまいなのですが、中腹には手の込んだシャープな遺構があります。石積みも多く見られます。

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                  図②左側小口周辺の石積みです。

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         主郭には、用土新左衛門を祀ったとされる祠があります。

                  ちょっと、怖いです~ !

         中の写真を撮ると悪いことが起きそうで撮れなかったです。

 ここに至るまで竪堀などの写真を沢山撮ったのですが、どれもただの藪にしか見えなかったのでアップしません。

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                    二の郭を守る堀です。

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      二の郭から二重堀切へ行く途中、展望が開けました。長瀞の石畳です。

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         展望スポットには転落防止のロープが張られています。

               見下ろすのも恐ろしい断崖です。

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      二重堀切の1本目です。2本目はくどいと思われるのを心配し、割愛します。

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                 中腹の腰郭、左「郭」右「石積み」

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           私は、沢山の郭達を見ました!

             でも、写真にするとこんな風にしか写りません。

                    悔しいです!


 最後に用土新左衛門について触れます。



 用土新左衛門は、藤田重利の別名です。

 秩父口の地を平安時代から治めていたのは藤田氏でした。
 室町時代には、関東管領上杉氏の重臣となります。


 戦国期、小田原北条氏が北上を続け、1546年川越の夜戦で関東管領軍を撃破します。
 時の藤田氏の棟梁藤田重利は、一族を守る為、北条氏の軍門に降ります。

 北条氏康の三男、北条氏邦を娘婿に迎え、本拠である秩父天神山城を家臣ごと婿殿に明け渡した藤田重利は、北条氏康の康と、北条氏邦の邦を賜り、藤田康邦と名乗ります。
 龍ヶ谷城の築城(拡幅工事?)を命じられたのはこの後のことと思われます。
 やがて、藤田康邦(重利)は、寄居北方の平地にある用土城に入り、用土新左衛門を名乗りました。防御力の無い城に入ることにより、恭順の意を重ねて表したのだと思われます。
 屈辱に耐え忍ぶ日々が身を蝕んだのか1555年、用土新左衛門は逝去いたします。


 用土新左衛門(藤田重利)が、これほどまでに気を使っていたのに、その長男藤田重連は北条氏邦の勘気に触れ、毒殺されてしまいます。
 そこで次男の藤田信吉は、武田に身を投じ、武田滅亡後は、上杉景勝に仕えます。


 豊臣秀吉が北条征伐を敢行した際、北条氏邦の篭る鉢形城を攻囲する上杉軍の中に藤田信吉がいました。兄を毒殺された恨み、領地を奪われた憤り、しかし、城兵には親戚やかつての家臣が大勢居る。
 信吉は、鉢形無血開城の使者となり、城兵の命を救ったのでした。
 信吉はその後、徳川家康へ主を換え、一武将としての立場を保ちますが、嗣子が無く、藤田信吉の死を持って、平安以来の名族藤田氏は、途絶えてしまいました。



ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/
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