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諏訪原城② ~ 馬場信春扇の縄張り

諏訪原城の続きです・・・

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       本丸に入りました。後方に大分崩された土塁があります。


 武田信玄は、1569年、馬場美濃守信春に諏訪原築城を命じます。


 信春は、元は教来石性でしたが、武田家臣馬場家の家系が途絶えたのを信玄が惜しみ、信春に継がせたとのことです。


 馬場春信は、信玄の下で幾多の戦功を上げ、家老にまで上り詰めました。

 築城の名手として知られ、諏訪原の他に、牧之島城、江尻城、田中城などの築城に携わりました。


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        本丸も広いです。千人以上楽に駐屯できそうです。

 信玄の死後には、馬場信春は、跡継ぎの武田勝頼に仕えました。

 甲陽軍鑑によると・・・

 1575年5月、長篠の戦いで、総崩れとなった武田軍の中、馬場美濃守信春は殿軍をかってでて、織田・徳川連合軍の追撃を押しとどめ、勝頼を逃がしてから、「我こそは、馬場美濃、討ち取って手柄にせよ!」と名乗り、最期を遂げたとのことです。

 また、「信長公記」によると、信長は「馬場美濃の働き比類なし」と褒め称えたとのことです。


suwsahara.jpg

 諏訪原城は、扇を広げたような縄張りで、この縄張りは馬場信春によるものとされています。

 長篠の戦いで勝利を収めた徳川家康は、1ヶ月後の6月には早くも諏訪原城を包囲します。


IMG_1750.jpg

本丸から二の丸へ戻り・・・ 

これは二の丸から図②の馬だしへつながる土橋です。

 長篠で惨敗をした武田軍のダメージは深く、諏訪原城には援軍も、食糧補給も見込めませんでした。


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 左が図②の丸馬だし、中央が三日月堀で幅深さとも10メートル以上あります。

 攻囲されてから二ヵ月後の八月、諏訪原城の武田兵は、夜陰に紛れて、逃亡したのでした。


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              図①の丸馬だしです。

 武田系築城の後期に登場する、(正式名称はありませんが)「捨て伏兵郭」です。

 イメージ図⑤の馬だしも、同じ「捨て伏兵郭」です。

 同じ役割を持った郭が、伊那大島城にもあります。

 敵の主攻の背後に伏兵を出せる位置にあり、敵が奪取しても、維持が難しく、また、この郭から更に攻め込むのが困難・・・ な、郭です。

 城方としては、捨て置いて、敵に確保されても、痛くも痒くもないし、何時でも取り返すことが出来る。

 敵としては奪取しても、そこを基点とした次の攻めが見込めないので、攻め取っても美味しくない。でも、攻め取らないと伏兵に悩まされる・・・ 

 といった、厄介な代物です。


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          ①の馬だしと②の馬だしをつなぐ長い土橋です。

 幅1メートルに満たないこの通路、両側が10メートル近く切り立っているのに崩れない!

              素晴らしい土木技術です!

 敵が①の馬だしを奪取しても、この・・・ 一人通るのがやっとの土橋上を、左側の二の丸と右側の②の馬だしからの射撃にさらされながら進まなくてはなりません。

 また、①の馬だしは、二の丸から鉄砲の射程圏内ですので、城方からの奪回は容易です。


IMG_1759.jpg

   諏訪原城から西側を写しました。お茶畑の先は断崖となっています。

 諏訪原城は東と西を断崖に守られた堅固な場所に築かれており、敵が大軍でも、その大軍を展開させる場所に乏しい点も、防御に適しています。

 長篠で武田勝頼が馬場信春の進言を入れて戦を回避し・・

 この名城に、武田が万の軍勢を籠め、馬場信春の指揮のもと、織田軍を迎撃していたら・・・

 きっと歴史は違うものとなっていたことでしょう。

 ホームページ 「土の城への衝動」 








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