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山梨県景徳院 ~ 武田家滅亡

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成21年11月1日、お城仲間のKさん&Mさんと、景徳院に行ってまいりました。

栖雲寺アク

 景徳院は、山梨県甲州氏大和町田野にあります。

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 景徳院山門です。創設当時のままであるということです。
 400年の時を越えて、朽ちることなく、威容を保っています。

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 武田勝頼一行は、古府中(甲府市)より、郡内岩殿城を目指し、この地に落ちて来ました。
 しかし、岩殿城主小山田信茂は裏切りの暴挙に出、勝頼はこの地で立ち往生となってしまいました。そこに織田の軍勢が来襲します。
 勝頼は、家臣たちが敵を防いでいる間に、嫡子信勝への家督相続の儀式を行いました。
 その際に、家宝の旗を立てかけた松であるとのことです。

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 武田信勝辞世の句 

 あだに見よ、誰も嵐の桜花、咲き散るほどの、春の夜の夢

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 北条夫人辞世の句 (武田勝頼の正室ですが、北条家より嫁入りしたので)
 
 黒髪の乱れたる世ぞ、果しなき、思いに消る、露の玉の緒

 武田家と北条家の同盟の証として、嫁入りしたのですが・・・
 その後、両家は仲たがいし、闘いの日々・・・ 
 織田の乱入で滅亡の定めへ・・・
 勝頼の「北条へ帰って、生き延びよ」との、説得に応じず。
 勝頼の妻として、武田の女として死を選んだのでした。

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 武田勝頼辞世の句

 おぼろなる月もほのかに雲かすみ、はれてゆくえの西の山の端

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 武田勝頼が腹を切る際に、腰掛けたとされる石が残されています。

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 右が勝頼正室、中央が勝頼、左が嫡子信勝の、お墓です。

 武田を滅ぼした織田信長が本能寺の変に散ると、この地に進出した徳川家康は、武田遺臣を慰撫するために、景徳院を設け、墓所を整えたとのことです。

 ホームページ 「土の城への衝動」
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Comment
Re: なるほど〜
リュウ様 御来訪ありがとうございます。

 上杉、武田、北条三国同盟で、織田政権に対抗する図式があったとしたら、面白かったことでしょうね。
 今川義元には太原崇孚雪斎がいましたね。勝頼にも頼れる外交官がいれば・・・
なるほど〜
景虎が御館の乱を制していたら…関八州どころか…武田北条ファンの夢は尽きません!
最後まで備えは盤石ゆえ上杉の援軍は不要と強がる所がプライドなんでしょうね…
高遠があんなに早く落ちるとは…
山中や八王子が一日で落ちた時、氏政も何かを感じたでしょうか。
如水がバカ殿を演じたのは知りませんでした!また一つ賢くなりました〜
Re: 行きました
リュウ様 御来訪ありがとうございます。

 勝頼さんは不運ではありましたね。上杉謙信の急死が彼に影を落としました。
 北条を敵に回した判断はどうだったのでしょうか?

 リュウさんのおっしゃる通り、信玄さんの責任は大きいですね。
 黒田如水さんは、武田信玄のファンだったのですが、武田家が没落してしまったことに課題を感じ、その要因を分析したそうです。

 信玄さんは戦国一の武将として、カリスマとして、全権を握ったまま死んでしまいました。それ故、残された武将たちは、信玄と勝頼を比べ、軽んじる雰囲気があったから、武田家は団結を欠き、没落したのだと如水は結論付けました。

 それ以降、如水は馬鹿殿を演じ、家臣の心が自分から離れ、後継ぎの長政へ向かうように心がけたということです。
行きました
10年前になりますか。私も行きました。天気も曇りでじめっとしていたせいか物哀しい雰囲気でした。武田ファンでもあり北条ファンでもある私的には何とも悲しい歴史です。
マンガですが、センゴクで読んだ新府城普請の裏には、富士川や天竜川から海を通じて貿易による国富で織田に対抗するしか道はないと読んでいたと。絶対愚主ではないですよ!オヤジの責任大です。それも乗り越えなければいけなかったんでしょうけど偉大過ぎです…
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