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長泉寺(2) ~ 藤田信吉没地


 長泉寺の最終話です。

長泉寺IMG_6181

 鐘撞堂です。

長泉寺IMG_6182

 本堂です。

長泉寺IMG_6183

 藤田能登守信吉の供養塔です。

 墓所はかつての所領であった、下野西方 「実相寺」 にあります。

長泉寺IMG_6184

 この石碑の苔をはがしながら、内容をノートに写し取りました。

 この石碑の記載内容と・・・

長泉寺IMG_6179

 この解説版の記載内容を足して2で割って・・・

 長泉寺に伝わる、藤田能登守信吉の物語を下記に・・・

 藤田能登守重信吉

 藤田康邦の次子なり。

 上州沼田五万石城主となる。(定説:御館の乱への介入による武将の配置換えで、沼田城を守る武将の内の一人に任命されたのであって、城主ではない。真田昌幸の誘いで武田勝頼へ仕えてからは、沼須城にあった。)

 天正十四年、上杉景勝に従って上洛し、従五位を賜る。

 慶長二年春、大森城一万五千石の城主となる。(定説:慶長3年に津川城代)

 主上杉景勝、石田三成に党す。信吉これを諫めるも聞き入れず。

 家康、信吉をして、三成より離して、越後へ戻る(定説:申し開きのため上洛せよ)説得せよとの要請に、信吉これを辞し(定説:進言したが、受け入れられなかった)京都大徳寺に入り剃髪し、名を源心と号し、金龍院に潜居す。

 家康、伏見城に入り、信吉に「東征(会津上杉征伐)の先導をせよ」との言葉に、信吉これを辞す。

 石田三成大乱を策すに及んで、信吉、家康の麾下となる。この戦の戦功により那須十万石を賜る。(定説:関が原合戦の後、家康は、下野西方一万五千石を藤田信吉へ与えた。)

 主景勝、信吉の計らいにて家康に謁す。

 大坂の陣起こり、再び家康の乞いに応じて徳川方の武将として参戦す。

 榊原康勝と共に木村重成と相対す。

 この時、康勝と軍略的意見が合わず、天王寺の戦いに傷を受ける。指揮を失せられ、創傷して病み、信濃に配せられる。

 暇を賜り、諏訪温泉に創傷の治療に向かう途中、奈良井長泉寺に寄留す。

 元和六年七月十四日、当山にて逝去す。享年五十五歳なり。

*知られざる埼玉の英雄の、波乱万丈の生涯でした。

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Comment
Re: ですよね
りゅう様 ご来訪ありがとうございます。

 藤田信吉さんは、家康に、いいように使い捨てされたのではと
感じています。
 上杉景勝さんが五大老として権力をもって、家康の対抗勢力と
なっている時点で、藤田信吉さんを大名に取り立てたのは、上杉
景勝さんへの当てつけ。更には、上杉家臣団へ「こっちに来たら
大名にしてあげますよ」との離反工作。

 関ケ原の結果、上杉景勝さんが小大名へと成り下がり、徳川家
へ尻尾を振る忠実な犬となった。
 そうなると、関東管領の家柄で、軍神謙信の後継者が忠節を尽
くすというなら可愛がってあげなくては・・・となる・・

 となると・・・
 上杉景勝への当てつけとしての、藤田信吉さんは用済みとなり、
捨てられたのではなかと・・・

 切ないです。
ですよね
結局関東には攻めかけず、最終的には関ヶ原にも出陣してる訳で。正則さんも熊本も松江も取り上げなのに大人の判断で生き残るところもすごいですけど。北条の大河が成った時には是非リアルに描いて欲しいですね。
信吉ファン
りゅう様 ご来訪ありがとうございます。
 威風堂々の佐渡攻めに出ていらしたんですね。
 知りませんでした。
 上杉家により「裏切者」刻印が押されてしまった信吉さんですが、
直江さんより、世の中が見えていた結果だと思うんですよね。
 もっと評価されてよい方だと感じています。
こちらで…
お久しぶりです。コロナの影響でしばらく見られませんでしたー 信吉公は晩年こちらにいらしていたのですか 知らなかったです!CSで威風堂々の再放送で佐渡攻めをやっていた時にも登場して萌えました!
いつか行きたいものです。
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