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埼玉県足利基氏館 ~ 鎌倉公方着陣

みなさん、こんにちは。

中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

平成20年12月16日に、足利基氏館に行ってきました。

基氏アク

足利基氏館は、埼玉県東松山市岩殿にあります。

 

IMG_0886.jpg

       こども自然動物公園に通ずる県道212号線にこの表示があります。

                      行ってみましょう!

 

 足利基氏は、かの有名な足利尊氏の子供です。足利尊氏は室町幕府を開くと、東国の押さえとして基氏を派遣し、鎌倉公方に任じました。

 

IMG_0888.jpg

 車で2分ほど進むと、右側に・・・ これがあります。

 画面右側が堀の跡です。(イメージ図:右側の堀)

 

 足利基氏は、足利尊氏の子であります。

 しかし、実際に基氏を育てたのは、足利尊氏の弟です。

 足利尊氏と弟は、次第に反目しあうようになり、両者は決別します。

 

 弟は上杉氏と共に、反乱の兵を挙げますが鎮圧され、毒殺されます。

 やがて、足利尊氏が死ぬと、鎌倉公方足利基氏は、育ての親の後見である上杉氏を関東管領として迎えます。上杉氏は反乱軍なのに・・・

 

IMG_0890.jpg

 反乱軍である上杉氏の関東管領就任に反発した宇都宮氏と芳賀氏は、挙兵し、この館の南東約一キロの岩殿山に布陣します。足利基氏はこの地に布陣します。

 この館の規模は小さく、土豪の館を接収して本陣としたのではないかとの推察が、掲示板に記されています。

 宇都宮氏・芳賀氏を追い払った足利基氏は両氏氏追討の為、両氏の本拠である栃木県へ陣を進めました。この地は、足利基氏の館と言うよりも、岩殿合戦の本陣とするべきでしょう。

 両氏は、足利基氏に屈服しました。

 

motoujijpg.jpg

 イメージ図を作成しました。南を低湿地に頼っているのは良いのですが、背後は館よりも標高の高い丘陵が続いており、背後から迫られるとアウトです。

 しかし、芳賀氏の軍勢とは低湿地を挟んだ位置関係でしたので、この戦いにおいては不都合は無かったでしょう。

image21879[1]

    見張り台とおぼしき場所に石積みがありますが、往時のものかは判然としません。

 

IMG_0884.jpg

      背後の丘陵と館とを遮断する堀です。かなり埋まってしまっているようです。

 

image2404538[1]

                  左側が低湿地、右側が館です。

 

IMG_0887.jpg

    イメージ左側の堀と土塁です。600年の時を越えて歴史を語る貴重な証人です。

 

image245726[1]

       弁天池です。ここも防御や水の手としての役割を持っていたことでしょう。

 

 初代鎌倉公方足利基氏が、「反乱者上杉氏」を、関東管領に据えた事が、その後関東を果てしない戦乱の渦に巻き込む要因となってしまったのでした。

 上杉対、関東在地武士団の対立は、次第に上杉対鎌倉公方の対立となります。幕府を味方にした上杉氏が鎌倉公方を断絶に追いやるも、在地武士団の抵抗で鎌倉公方が復活! すぐに手切れとなり、鎌倉公方は古河へ動座・・・・

 

 その後も延々とゴチャゴチャが続き、小田原北条氏の台頭を招くこととなってしまうのでした。

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

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