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愛知県長篠の戦い「丸山砦ete」 ~ 馬場美濃守鬼神の戦い

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成21年6月20日、お城仲間のMさんと、長篠の戦い「丸山砦」へ行ってきました。
 丸山砦は、愛知県新城市にあります。


 このレポートでは、武田家の重臣「馬場美濃守信春」の行動を中心に、丸山砦も紹介して参ります。

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 長篠の戦い前夜、馬場美濃守は、長篠城を見下ろす大通寺砦を守っていましたが、織田・徳川連合軍が設楽原に布陣すると、武田勝頼の命で武田軍の北端に布陣します。丸山砦の北東にあたります。

 

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        正面の小山が、丸山砦です。奥の山が織田軍陣地。

 

 三州長篠合戦記によると、丸山砦は、馬防柵の外に位置していた。織田方の佐久間信盛、滝川一益の兵、4千が布陣していたということです。


 そこに武田家臣、「馬場美濃守信春」が、7百で攻めかかり・・・って?

 

 4千へ7百で、攻めかかる? 

 

 5.7倍の敵に攻めかかる覚悟! すさまじいものがあります。


 その上、何と! 「馬場美濃守信春」は、佐久間、滝川勢を押しまくり、両勢は、馬防柵の内側へと退却したとのことです。


 5.7倍の敵を蹴散らす・・・ 


 武田精鋭の戦闘力はかくも、偉大であった・・・


 しかし、そこにこそ武田勝頼の慢心が生まれる原因が・・・


 皮肉なものですね。

 

 馬場美濃守は、350で丸山砦を守らせ、残り、350で馬防柵へ攻めかかります。

 しかし、柵を破ることは出来ませんでした。

 

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 丸山砦の南側には、馬防柵が一部復元されています。あの場所では、同じ武田家臣、土屋昌次が柵に取り付き鉄砲の餌食となりました。

 馬場美濃守は、その瞬間をどの様な気持ちで眺めていたのでしょうか?

 

 徳川・織田連合軍は、新手を次々に繰り出してきますが、武田軍に余裕の新手は少なく、猛暑の中、6時間の戦闘で、武田軍の疲労は限界に達してしまいます。


 頃良しと見た織田信長は全軍突撃を命じ、武田勝頼は「退きほら貝」を吹かせます。

 

 現代で人気一番の武将真田幸村のお父さんのお兄さん達、真田兄弟が殿軍を申し出ます。

 

 

 武田軍の退却経路に、真田兄弟の墓が在ります。

 

 真田兄弟は、織田勢をこの地で防ぎ、勝頼の逃亡時間を稼いだ後、討ち死にをして果てました。

 

 真田の組下に入っていた北軽井沢の鎌原之綱(当ホームページ群馬の城をご参照下さい)もここで織田軍の刃にかかりました。

 

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 馬場美濃守信春は、勝頼に付添って退却し、勝頼を信州方面へ落とすと、織田軍の方へ引き返し、この断崖上で奮戦したあと、首を取られたということです。

IMG_2457.jpg

 

 先ほどの看板から3分ほど斜面を登ると、討ち死にの地の石碑があります。

 

 

 

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         勝頼が落ちて行った・・・ 信濃への道です。


 

IMG_2412.jpg

 

 馬場美濃守信春(別名:信房)の首を埋めたとされる墓が長篠城弾正郭の西側にあります。

 

 武将の散り方とは・・・

 

 それを今に伝える英雄、馬場美濃守よ安らかに眠りたまえ。

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

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Comment
ご指摘ありがとうございます。
ヨシダ様 ご来訪ありがとうございます。

 この記事を作成した際の資料が出てきませんで・・・

 部屋の隅に資料が山積みになっているのですが、加齢とともに・・・

 どの資料がどのファイルにおさまっているのかを把握しきれなく・・・

 織田軍の数を考えると写真正面の小山だけではおさまりきれないでしょうし、
右の山も含めての丸山砦だったのでしょうか?

 返事になっていなくて申し訳ありません。
一枚目の写真ですが、丸山砦は撮影者の右方向にあると思われますがいかがでしょうか。
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