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埼玉県諏訪城②~ 折りつき土塁

 諏訪城の続きです・・・

 

IMG_2650.jpg

 

 線路を渡ると、矢倉台の様な高まりがあり、そして、石塁が折を伴って張り出していました。

 

suwa.jpg

 

    イメージ図、三の郭手前中央部の張り出している部分です。

 

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 その外側には道路がありました・・・ 道路は昔・・・ 堀だったケースが多い・・・

 

 ということで、三の郭の外堀であったと妄想します。折りがつけられ、張り出しているのがわかります。

 

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 図、三の郭の右側にも石塁がありました・・・ 右側は堀があったと思われます。

 

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 本郭への道です。諏訪城全体に兵を満たしたら2000は、籠れそうです。

 

 しかし、秩父全体の動員兵力は、多く見積もっても1000だと思われますので、この城は、秩父以外からの援兵を収容することを想定した造りとなっていると思われます。

 

IMG_2640.jpg

 

            遊具の向こう側には土塁が残っています。

 

 戦国後期の秩父は北条氏の領土でした。秩父の西は武田家の領国です。北条家と武田家と今川家は三国同盟を結んでいましたが、今川義元が桶狭間の戦いに敗れると、武田信玄が今川領国に進入・・・

 

 北条家は、今川につき、武田と敵対します。

 

 諏訪城が秩父の守りの拠点として改修を受けたのは、この時期ではないかと推察いたします。

 

IMG_2646.jpg

 

         本郭の突端です。左側はえぐれています。

 

 事実、1569年、武田信玄は上州から秩父に進入し、寺社を焼き払います。秩父ではこの凶行を「信玄焼き」と呼ぶそうです。

(おみやげ物の、お饅頭の名前みたいですね)

 

 

IMG_2642.jpg

 

             本郭から荒川を見下ろしました。

 

 秩父焼きの際、信玄は龍ヶ谷城(http://myhome.cururu.jp/koujirou01/blog/article/61002183210

 を囲み、小競合いの後撤収しました。

 

 信玄は、秩父を制圧するつもりは無く、武威を示し、北条を屈服させることが目的であったようです。

 

 その際の、諏訪城に関する戦闘の記録はありません。改修前だったのか? 改修中だったのか? 守兵が足りなかったのか? 

 

 いづれにしても武田軍を迎え撃つには不十分とみなされ放棄されていたのでしょう。

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

 

 

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