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埼玉県畠山重忠館 ~ 駒ヶ嶺のルーツ


 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家土の城派、武蔵の五遁です。
 平成20年9月9日には、畠山重忠館に行ってきました。 埼玉県畠山重忠館
 畠山重忠館は、埼玉県深谷市にあります。


 

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 女房のルーツを確認するためにやってきました。


 女房は、東北は南部氏に仕えた駒ヶ峯家の者です。


 代々伝わる家系図によると南部氏の分流と示されており、女房もその母親もそれを信じていました。

 

 しかし、今回東北への帰省時に現地で資料を確認すると事実は異なることがわかってきました。結論から申し上げると、女房の祖先は、畠山重忠公に行きつくのした。

 

 

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 畠山氏は、平安期秩父にあり、重忠公は源頼朝の挙兵に従い、平氏討伐の戦いに従軍、戦巧を上げます。


 一の谷に兵を置く平氏に対し、義経が裏山に入り、「鹿が移動できるのだから、馬も移動できる」と裏山から攻め降りた際、重忠公が「愛馬が足を挫く」のを心配し、愛馬を背負って崖を駆け降りたエピソードが有名です。

 

 公園には、愛馬を背負う重忠公の銅像があります。

 


 

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 解説版です。

 鎌倉幕府成立後、戦巧への恩賞として「現三重県の一部」「現岩手県の一部」を与えられます。

 

 重忠公は、三男を「現岩手県の一部」へ下向させ、その子の代で「浄法寺」を名乗ります。現在の岩手県浄法寺町周辺の地域がそれにあたります。

 

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 畠山重忠公の墓とされる石塔です。

 

 重忠公の孫の居城、現在浄法寺町に残る浄法寺城は八戸根城にも匹敵する規模があり、浄法寺氏の勢力が大きかったことを物語っています。


 しかし、戦国期になると浄法寺氏は、南部氏の風下に置かれるようになります。

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 館跡には、畠山重忠公産湯の井戸とされる窪みが残っています。

 

 さて、畠山重忠公の孫から始まった浄法寺氏ですが、戦国末期の九の戸の乱の際、表向き南部氏につきますが、隠れて九の戸方の大湯氏に援軍を送るなど微妙な態度をとります。


 九の戸の乱が平定されると浄法寺氏は何食わぬ顔で南部氏の配下を続けますが、時を置かずして領地を没収され、浄法寺氏は断絶してしまいます。

 

 理由は「和賀氏の残党が籠った岩崎城を攻めた際に不手際があった」とされていますが、南部氏による情報操作であると考えられます。


 実際のところは「九の戸亡きあと、親族衆以外では最大の領地を持つ在地勢力である浄法寺氏の存在が邪魔だった。」「九の戸の乱での反南部行動がバレてしまった」といったところでありましょう。


 南部氏は、浄法寺氏の分流「駒ヶ峯氏」に、浄法寺氏の支配地のごく一部を与えます。

 

 この時、駒ヶ峯氏は、家系図の書き換えをせざるを得なかったのだと思われます。南部の世で生きるためには、先祖を捨て、南部氏の分流として生きるしかなかったのでしょう。

 

 

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 井戸跡には、「キケン、はいるな!!」の看板があります。

 

 駒ヶ嶺氏にとっても、自分たちの祖先が浄法寺氏であると言う事実は「キケン、はいるな!!」の領域であったと思われます。

 

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 井戸跡には、金網が張られ、奥は闇の中です。

 日本の歴史には、まだまだ、解き明かされぬ闇が横たわっているのでしょう。

 自分のルーツと信じ続けていたものが・・・・

 実は、自分のルーツを破壊した敵方に創られていたことを、知った女房は・・・・

 心の整理がつかないようです・・・・

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

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