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川尻塚 ~ 復讐の逆さ埋め

 みなさん、こんにちは。
 武蔵の五遁です。
 平成30年3月10日、川尻塚に行ってまいりました。

川尻60

 山梨県甲府市岩窪町にあります。

武田D048

 武田信玄公墓所(信玄公火葬塚)の目の前に、川尻塚の表示があります。

*甲斐で川尻といえば・・・

 川尻秀隆さんですね。

 美濃の土豪の出で、織田信長に仕えました。

Kawajiri_Hidetaka.jpg

 電子辞書から引っ張ってきました。

*美濃攻め、伊勢攻めにて戦功を上げ、重く用いられました。

 長篠合戦の後、武田の支配していた美濃岩村城を攻囲し、降伏した武田兵を皆殺しにして、甲斐の民の恨みを買いました。

武田D049

 小学校の跡地と思われる空間へ入っていきます。

*武田家滅亡の際、先鋒の大将は信長の嫡男、織田信忠でした。

 しかし、実質上の指揮は副将の川尻秀隆が執っていたとされます。

 川尻秀隆は、戦功により甲斐と諏訪を与えられました。

 織田信長は、甲斐の武田一族や重臣たちをしらみつぶしに探し出し、殺してしまいました

 その信長への恨みも、川尻秀隆へ向けられたとされています。

武田D050

 通路があり、奥に柵があり、表示があります。

*川尻秀隆は、躑躅ヶ崎館にいたという説と、ここ、岩窪館にいたという説があります。

 本能寺の変が起き、織田信長が死んだとの知らせが甲斐に入ると、甲斐は騒然となりました。

 関東に配された滝川氏や、信濃に配された森氏は領地を支えきれずに西国へ帰ってしまいました。

 甲斐の民は思いました。

 今なら・・・

 憎き川尻秀隆を殺しても、誰のとがめを受けることもない・・・

武田D051

*平山優著「天正壬午の乱」によりますと・・・

 甲斐では一揆が蜂起し、その勢力は日に日に増していった。

 徳川家康は川尻の力になりたいと、家臣の本田信俊を派遣したが、川尻は家康が甲斐を横領しようとしているのだと考え、本田信俊を殺してしまった。

 本田信俊の家臣たちは、主君の敵を討つべく、甲斐の一揆と同心し、川尻を攻め殺した。

 川尻の家来三千はほとんどが殺され、または、散り散りに落ち延びたということです。

 甲斐の民は、憎き川尻秀隆を逆さ釣りにし、その姿勢のまま土へ埋めた為、逆さ塚とも呼ばれたということです。

武田D052

 川尻さんとしては、「織田信長の命令の通り、懸命に働いただけ」だったのでしょうが・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「史跡の部屋」
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