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長野県楽厳寺城~布引観音谷防衛構想

みなさんこんにちは。
中世城郭愛好家土の城派、武蔵の五遁です。
平成20年5月31日には、城仲間のMさんをご案内して楽厳寺城へ行ってまいりました。
楽厳寺城は、長野県佐久郡小諸市大久保にあります。
別名を布引城とも言います。
日本城郭体系によると、楽厳寺雅方(がんがくじまさかた)が、城主であったとのことです。


 

numohiki.jpg

 イメージ図①です。

 楽厳寺城は、北西約400メートルにある堀の内城を補佐する小塁と、とらえられることもあるのですが、実は、下方にある布引観音を包括した布引谷防衛構想の一部なのです。
 千曲川から布引観音へ至る道は、巨大な岩が幾重にもせり出す断崖で、岩の上に射撃兵を配置すれば、敵の侵入を容易に拒むことが出来ます。
 布引観音から上は、居住、耕作が可能な谷が続きます。
しかし、下方からの敵には強い布引谷要塞も、背後の崖上から攻められるとひとたまりもないという弱点を持っていました。
 そこで崖上、御牧原台地の北端に楽厳寺城を築き、布引谷防衛構想を完結させたのです。

 

 

100_1349.jpg

 二本の土塁が交錯する厳重な小口は、舗装道路の作成により破壊されてしまいました。右側土塁の手前には、「お歯黒池」と呼ばれる水堀があります。

 

100_1348.jpg

       「お歯黒池」です。お歯黒の女性が実を投げて亡くなったのでしょうか?

       小諸平野を見下ろす断崖上に、水堀があるのは、ちょっとした驚きです。

 

100_1350.jpg

 小口をはさんで、北側には「血の池」があります。落城の際は、文字通り血に染まったことでしょう。今は小さな池ですが、古図面によると土塁に平行してずっと伸びていたようです。

 昭和期にバンガロー作成の為埋められたようです。

 

100_1351.jpg

       破壊された土塁の断面です。一部石積みが使用されていた模様です。

 

ganngakuji.jpg

 イメージ図②です。古図面を参考に小口を復元描写しました。

 非常に珍しい構造です。

 通常、本郭を中心に、防備を固めていくのですが、何処が本郭か解りません。

 また、効率良く守ろうと思えば、図左側の尾根だけ築城すれば良いのです。

 図右側の尾根を城域に取り込んだ理由は、二つの尾根の間に位置する、布引観音谷を守ろうとしたからだと思われます。

 

100_1353.jpg

 二つの尾根をつなぐ部分です。郭というよりは通路に近いです。写真の右下は急斜面となって落ち込んでいます。

 急斜面の下に布引観音があります。

 

 布引観音は、天分17年(1548年)に、信玄により焼き払われています。宗教施設であることに加えて、軍事拠点にもなっていたことの証左です。

 楽岩寺雅方は、信玄への抵抗を続けていましたが、この布引谷要塞が信玄の手に落ちると布下仁兵衛雅朝(隣の堀の内城主)とともに、村上義清の許へ奔り、暫らくは砥石城の守備にあたっていたとのことです。

*平成24年10月12日追記  
 楽厳寺雅方が砥石城の守備にあたっていたというのは、「甲陽軍艦」の記述です。「甲陽軍艦」は江戸時代に、史実と、誤解と、創作が混然一体となって記されたものであります。楽厳寺雅方はこの地を攻められて、信玄に降っていたようです。


 

100_1356.jpg

      イメージ図②左側の尾根を分断する堀切です。見事に残っています。

 残存度が高く稀有な縄張りを持つ城ですので、せめて解説版か石碑などを置いてもらいたいものです。

 

楽厳寺雅方は、「甲越信戦録」に、額岩寺光氏としてえがかれています。村上軍一の猛将として砥石崩れや上田原の合戦で活躍し、準主役級の扱いを受けています。

*平成24年10月12日追記
 「甲越信戦録」も江戸時代の小説です。真実は何処にあるのでしょうか。

ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

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