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愛知県長篠の戦い「山県昌景本陣」 ~ 遊撃戦果たせず

 みなさん、こんにちは。

 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

 平成21年6月20日、お城仲間のMさんと「山県昌景本陣」に行ってきました。

 

 愛知県新城市、JR飯田線三河東郷駅のすぐ南にある、勝楽寺がそれにあたります。

 

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                勝楽寺の境内です。

 

 山県昌景は、武田家重臣飯富家の次男、飯富源四郎として生まれました。信濃の小笠原氏を攻める戦いで戦功を上げ、侍大将に抜擢されました。

 

 第4次川中島合戦の4年後となる1565年、武田家に大事件が勃発します。

 

 武田信玄の嫡男、武田義信が、飯富家当主虎昌(山県昌景の兄)とともに、クーデターを企画しました。

 弟である、源四郎(後の山県昌景)は、悩みます・・・

 

 主君信玄へのクーデターを知ってしまったからには、主君信玄へこれを知らせ、クーデターを鎮圧せねばならない・・・

 

 しかし、それは自らの兄を死に追いやることに・・・

 

 

IMG_2559.jpg

 

 境内を調べて廻りましたが、山県昌景に関する掲示や石碑等はありませんでした。寂しいことですが、ここ三河では武田は敵であるから仕方の無いことですね。

 

 源四郎は、主君信玄への忠義を取り、クーデターは未然に鎮圧されました。

 

 信玄は、身内への情より、主君への忠義を選んだ源四郎の決断を喜び、兄の配下の侍をそのまま源四郎に与えました。

 

 そして、飯富家は反逆の家となったため、源四郎が肩身の狭い思いをしないようにと、名家:山県の名乗りを与えられ、山県昌景となりました。

 

 山県昌景は、その後常に信玄と共に、関東侵攻、駿河侵攻に従軍し、戦功を上げ、重臣の座に上り詰めます。

 

 甲陽軍鑑によると、長篠の戦いの少し前、長篠城を助けんと攻め寄せた家康の軍勢を、山県昌景が追い払い、万策尽きた家康は、信長へ援軍を頼んだとのことです。

 

image2765380.jpg

 

 長篠の戦いの、かなり省略した対陣図です。

 

 山県のところを、土屋と誤記していました。スミマセンでした。

 

 同行して頂いたMさんのお話ですと、武田軍は北に馬場、南に山県の最強軍団を配し、北と南から馬防柵を迂回して、敵陣の背後に廻る遊撃作戦を企図したのではないかとのことです。

 

 山県昌景は、勝楽寺に本陣を置き、馬防柵の南側へ攻撃を加えますが、柵は無いものの、段丘などの要害地形があり、しかも、徳川精鋭の大久保勢が攻め寄せ、一進一退の攻防が続きます。

 

 そうしたなか、陣形を広げすぎた武田軍の中央部分が危うくなった為、山県昌景は、中央部分へ移動します。

 

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 山県昌景が第二の陣を敷いたとされる場所です。すぐ向こう側は落ち込んでいます。その先の平野が決戦地で、その向こうの森が織田の陣地です。

 

IMG_2477.jpg

 

              山県昌景の碑がありました。

 

 この地に陣を移した山県は、戦況を見て、織田の陣地へ攻めかかります。

 

 

IMG_2480.jpg

 

    織田の陣地はこの様に馬防柵に守られていたとのことです。

 

 甲陽戦鑑によりますと、馬の鞍の前輪のはずれたところを、前から後へ鉄砲で打ちぬかれ、そのまま討ち死にしたとのことです。

 

 享年47歳でした。

 

IMG_2472.jpg

 

 近くには、この様なモニュメントがありましたが、武田ファンとしては、心が痛むのでした・・・

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

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