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伊那龍ヶ崎城(7) ~ 小牧長久手の余波

 伊那龍ヶ崎城の最終話です。

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 本郭の手前の堀の北側部分。

*さて、北伊那が武田の手に落ちると、武田の戦線は、北信濃や上野、駿河などへ移り、龍ヶ崎城は記録に出なくなります。

 しかし、武田の滅亡後の混乱の中で、龍ヶ崎城は再度日の目を見ます。

 そして、追加普請された可能性があります。


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 南側部分。

*武田が滅び、織田信長が本能寺の変で倒れると、上伊那の豪族藤沢頼親は自立し福与城に入ります。

 親戚の小笠原貞慶が、徳川家康の支援で深志城に入りましたので、藤沢頼親は徳川家康に従いました。

 その後、北条氏が大軍を率いて諏訪に入り、北条氏の支援を受けた保科氏が高遠城に復帰しました。


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 本郭の塁壁。

 高さは10メートルほどありそうです。

*北条と徳川は信濃領有を争い対立します。

 北条のほうが大軍で有利と見た小笠原貞慶は北条の傘下に走り、藤沢頼親もそれに従いました。

 しかし、その後、北条は黒駒合戦で大敗するなど、不利な状況に・・・ 


 黒駒合戦についてお知りになりたい方は、下の記事の赤字部分をご覧ください。

 御坂城③ 御坂城④ 御坂城⑤ 御坂城⑥

龍ヶ崎城西

 北西部分のイメージ図。

*機を見るに敏な高遠城の保科正直は、徳川の傘下へ寝返りました。

 そして、すぐ隣の藤沢頼親へ同調するよう迫りました。

 しかし、藤沢頼親がこれを断ったため、保科正直は藤沢頼親を攻め滅ぼしました。

 上伊那は保科正直の領するところとなりました。


龍ヶ崎城東

 南東部分のイメージ図。

*その後、形勢不利と見た小笠原貞慶は徳川家康に泣きを入れ、配下に戻してもらいました。

 1584年、小牧長久手の戦いが勃発し、徳川と豊臣が対立します。

 豊臣秀吉は、徳川の勢力を減じるため、徳川家臣石川数正を寝返らせ、味方に引き入れました。

 石川数正は、小笠原貞慶の人質を豊臣秀吉へ差し出したため、小笠原貞慶は豊臣の配下となりました。


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 北西から見た本郭。

*1585年12月2日、小笠原貞慶は松本城を出陣しました。

 親戚の藤沢頼親を滅ぼした保科正直へ復讐をするためです。

 保科正直は徳川配下でしたから、徳川配下を攻めることは、豊臣への忠誠を示すことになるとの計算もあったことでしょう。


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 本郭から見た・・・ 深志平と伊那を結ぶ道です。

*小笠原貞慶は、龍ヶ崎城を攻め落とし、これを確保すると保科正直の高遠城へ向かいました。

 しかし、城の手前で保科勢の不意打ちに会い、大敗を喫し、松本城へ逃げ帰りました。

 この戦いの前後に、龍ヶ崎城は最後の追加普請を受け、現在の姿になったと推察されます。


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 南東から見た本郭。

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 荒神山砦から見た龍ヶ崎城。

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 東から見上げた龍ヶ崎城の遠景でお別れです。

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