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望月城(6) ~ 地味に没落か?

 望月城の最終話です。

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 二郭に登ってきました。

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 二郭は、本郭をくるむように、北側に伸びています。

 その北側です。

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 二郭北側の塁壁は、高く、急です。

a望月城Ⅱ

 東へ伸びる尾根を断ち切る連郭ですが、北側に敵が布陣できるスペースがあるので、北側の守りが厳しく普請されていますね。

*現在、望月氏と望月城についてネットで調べると・・・

 望月城は、天正10年(1582年)9月、徳川家康配下の依田信蕃(武田旧臣)に攻められ、一か月に及ぶ攻城戦の末に落城し、望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。

 ・・・といった記述に出会います。


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 本郭へ入りました。

 戦時に、城主が泊まる建物があったのでしょうか?

*一方、天正壬午の乱研究の第一人者平山優氏著「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」によりますと・・・

 7月12日、北条の大軍が信濃へ侵攻、徳川方の依田氏は本拠春日城を支えることができず三沢小屋へ逼塞。

 10月26日、徳川の援軍が到着し、依田氏は春日城を回復。

 (つまり、9月は三沢小屋に逼塞中で、望月城を1か月にわたり攻囲することなどありえない。)


IMG_1958_201611081148098dc.jpg

 前回には無かった木柱がありました。

* 同年12月、依田氏は、新たに家臣となった望月、小山田、平尾、平原、森山氏などを集め、徳川家康から与えられた金子を分け与えた。

 翌年2月14日、望月印月齋一峯、根津昌綱らが小諸城を占拠し、上杉景勝へ出兵を要請。

 3月26日、依田氏は小諸城を含む佐久全域を掌握。(小諸城での戦闘記録なし)

 それ以降、望月氏に関する記録はありません。


IMG_1959_20161108114909ea8.jpg

 望月は、古くから名馬を産出する牧場として栄えた土地ですね。

*つまり、望月氏は一旦依田氏の傘下に入っておきながら・・・

(上杉氏からの、貴殿を佐久総代にして進ぜよう的な甘言に踊らされて)

 依田氏を裏切った。

 しかし、上杉氏の出兵は無く、孤立無援の中、何処かへ姿をくらました。

 地味な没落であったと推察されます。


IMG_1954.jpg

 解説版です。

*何故、落城悲話が生まれたのか・・・

 江戸時代、歴史研究などは進んでいなかったので、望月氏の没落の経緯が判らなかった。

 そこで、地元愛に溢れた方が、「地元の名族望月氏の終焉は勇敢で、華々しいものであって欲しい。」「いや、きっとそうだったに違いない」と、「一か月籠城の末、落城」説を創作した。

 何しろ、他に資料がなかったがために、その創作がいつしか真実と誤認されていったのではないでしょうか?


IMG_2110.jpg

 南からの遠景でお別れです。

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