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戸倉城

みなさんこんにちわ。

中世城郭愛好家土の城派「武蔵の菅原」です。

戸倉城は、あきる野市戸倉にある山城です。

 


 

 この看板を過ぎて、すぐ左に整備された登山道があったのですが、気がつかず、まっすぐ進んでしまいました。やがて道は無くなり、お決まりの藪こぎ直上でどうにか別郭にたどり着きました。別郭の斜面には所々石積みが見られました。

 

 室町時代に作られたと推察されています。
 戦国時代には、大石定久の居城だったとのことです。
 大石定久は、元々は扇谷上杉氏の重臣で、八王子市の滝山城に本拠を置いていました。


 戦国中期、小田原から北上を続ける北条氏は、扇谷上杉氏の川越城を奪取します。
 追い込まれた扇谷上杉氏は、山之内上杉氏と、古河公方に援軍を頼み、連合軍は北条軍の篭る川越城を包囲します。
 ところが北条氏康の奇襲により、連合軍は敗走の憂き目を見ます。


 ことここに至り、大石定久は、北条氏康の傘下に入ることを決断します。
 大石定久は、娘婿に北条氏康の三男を迎え入れ、自らは戸倉城に隠居したとのことです。

 言い方を変えると、本拠の滝山城を家臣ごと接収され、僅かな供回りと共に、片田舎へ追いやられる屈辱に耐えたということでしょう。


 婿殿は、初めのうちこそ気を使って由比(大石氏の昔の拠点の地名)や、大石と名乗っていましたが、やがて北条氏照と名乗り、武蔵の国守護代として栄華を誇った大石氏の家名は表舞台から消えてしまいます。

 


 イメージ図を作成しました。一城別郭(いちじょうべっかく)の、防御構造です。
 一城別郭とは、城内に2つの拠点を設け、一方が敵に取られても、もう一方を確保し、逆襲しようとする。やや古い防御思想の具現です。
 このことから戸倉城の創設は、室町時代であったと考えられています。


 その頃この地には「南一揆」と呼ばれる、土豪の連合体があり、中央政府に納めるべき年貢を納めない等のレジスタンス活動を行っていたとのことで、戸倉城は、南一揆の土豪により、作られたのではないでしょうか。


 本郭から、あきる野市を眺めた写真です。
 大石定久は、どの様な気持ちでこの景色を眺めていたのでしょうか?
 一族が負死する、または、領土を追われることを避ける為とはいえ、定久の苦渋は深かったと思われます。

 

ホームページ「土の城への衝動」   http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

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