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新井城(1) ~ 三浦道寸入城

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

 平成28年2月6日、お城仲間のМさんと新井城に行って参りました。
 神奈川県三浦市、三崎町小網代1082にあります。

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 城内にある、「京急油壷マリンパーク」を目指せば迷うことはありません。

 ここは三郭ですね。

新井城

 先人の図面と、地形図から起こしました。

 パッと見の判りやすさを追求するため、本郭周辺にデフォルメを施しています。

*道寸が三浦家当主となったいきさつは諸説あり、正確なことはわかりません。

 小田原北条記によると・・・

 室町時代、三浦時高は、鎌倉公方足利持氏の傘下にありました。

 足利持氏は、関東管領上杉家と対立しました。


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 駐車場を出て、右へ進むと、二郭の塁壁が遠望できます。

 左側は、第一駐車場が満車になった際に解放される第二駐車場でしょうか?

 駐車場入り口に、鎖が張られていましたので、侵入は自粛させていただきました。

*足利持氏が挙兵すると、三浦時高は、なんと関東管領家へ寝返りました。

 この寝返りにより足利持氏は自刃し、鎌倉公方家は一時断絶となりました。

 三浦時高は、主家の没落に加担した恩賞として、関東管領から大封を与えられました。


IMG_8453.jpg

 東へ移動して、本郭へ近づこうとしましたが、東京大学研究施設の敷地となっており、立ち入りできません。

 柵越しに敷地内を撮影しました。

*しかし、三浦時高には男子がありませんでした。

 そこで、扇谷上杉家から義同を養子に迎えました。

 義同は器量が優れており、才覚も飛び抜けていたので、三浦一族の者は義同を大切に扱いました。


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 「D」から、断崖のへりに沿って、南へ移動し始めました。

 ここも立ち入り禁止ですね。

 更に南へ移動すると・・・

*ところが時高の晩年になって時高に男子が生まれました。

 時高は、大変喜びました。

 そして、「養子の義同を追い出し、実子に家を継がせたい」と考えるようになりました。

 時高は、義同につらくあたりましたが、義同は益々孝行を尽くしました。


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 遺構らしい、雰囲気の場所が・・・

*家老達はこれを見て、時高へ「今のなさりようはいけません」と、諫めましたが時高はかえって、義同の殺害を企てました。

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 柵超しに撮影しました。

 本郭と三郭を隔てる堀です。

*義同は三浦領を去り、小田原の寺に身を寄せると、剃髪し、道寸と名乗りました。

 三浦の一族や家臣達は、「時高の振る舞いは道理を外している」と義憤にかられ、道寸のもとへ、ひとり、また、ひとりと集まってきました。

 やがて、道寸のもとには大軍が集結する事態となりました。


 (私見では、道寸の実家扇谷上杉家や、血縁関係のあった大森家の後押しがあったのではないかと思います。)

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 本郭に沿って、更に南へと移動します。

*道寸は集結した人達の気持ちを汲む形で出陣を決意しました。

 義父時高の住む新井城へ攻め寄せ、落城させました。


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 本郭南端の小口であろう場所です。

 ここも立ち入り禁止です。

* 時高をはじめとして、城内にいた者は全員、城を枕に討ち死にとなりました。

 道寸は三浦家の当主となりました。

 1494年のこととされています。


IMG_8443.jpg

 本郭南端と、「A」を隔てる堀切があったと思われる場所です。

 「新井城第2話・北条早雲侵攻」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「神奈川の城」
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