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丸子城(18) ~ 徳川の普請か?

 丸子城の第最終話です。

 レポートは馬出に戻ります。

 私は、馬出と「い」の連絡がどうなっていたのか疑問を持っていました。

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 今回、同行のМさんが「い」の下に、木橋受けがあることを発見してくださいました。

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 「い」から、見下ろした木橋受けです。

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 私も木橋受けに降り立ちました。

 馬出と高さが合います。

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 木橋受けから「い」をぐるりと回りこむ通路もあります。

 「あ」と「い」は、セットで機能する、変形馬出ではないかと、私は思います。

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 その通路です。

 奥の矢印で左に曲がります。

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 曲がった先の「い」から撮影しました。

189_2015123015593182f.jpg

 今度は「あ」の突出部分を撮影しました。

 塁壁の切立ちが感じられます。

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 「あ」から「い」方向を撮影しました。

 屈曲構造が視認できます。

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 「い」から、本郭への屈曲通路を見上げました。

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 登ってきました。

 今回、恥ずかしながら、本郭の写真を撮影するのを忘れてしまいました。

 さて、

 「疑問1」

 丸子城の主尾根で、ところどころ堀が埋められたような痕跡が見られることについて・・・


 丸子城は、当初、主尾根を順次堀切って、主尾根上を攻めてくる敵に備えた城だった。

 敵 ⇒□⇒□⇒□⇒□⇒□守る側

 ところが、最終的には主尾根の北西斜面から攻め上ってくる敵に備える城となった。

   敵    敵    敵
   ↓    ↓    ↓
 ===========
   ←  守る側   →

 守る側は、敵が集中する場所へ素早く兵士を移動させる必要が生じた。

 深すぎる堀切は左右の移動の妨げとなった。

 とこで、一部、堀を埋め、左右の移動を容易にしたのではないでしょうか?

 「疑問2」

 縄張りの指向性がおかしいことについて・・・


 下の図をご覧ください。

 武田末期、南西方向から徳川軍が攻めてくることに備える城でした。

 赤の矢印からの攻めに備えて普請を強化すべきですが、この尾根には狭い段々が数段あるだけです。

cimg019.jpg

 最終的な追加普請であると想定される、技巧的な遺構は城の北西方向に集中しています。

 敵が、A、B、Cに布陣することを見据えての追加普請と思われます。

 往時は「歓昌院坂」と呼ばれる、緑色の道がメジャーな道であったということです。

 敵は北から「歓昌院坂」の峠に至り、峠から緑の点々に沿って尾根筋を進み、A、B、Cへ布陣する。

 その敵とは、武田軍ではないでしょうか?

 徳川軍が丸子城を接収した当時、徳川が海沿いの地域は掌握していたが、北方の山間部には武田の残党が跋扈していた。

 少なくとも、丸子に入ったばかりの徳川兵は、そう思い込んでいた。

 そこで、武田に奪回されぬよう、 徳川軍が北西方向に追加普請をした?

 同じ静岡県の諏訪原城で発掘調査をしたところ、徳川が奪取後に追加普請をしていたことが確認されています。

 丸子城でも、徳川軍が同様に追加普請をしていてもおかしくはありません。

 徳川の城にも三日月堀はあります。

 以上、歴史素人の妄想でした。

 土の城マニア必見の、芸術的な移行が目白押しです。

 是非、訪問していただき、謎について語り合いましょう!


211_20150716164913de5.jpg

 南西からの遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「静岡の城」
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