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誓願寺 ~ 片桐且元墓所

 みなさん、こんにちは。

 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

 平成27年7月4日、お城仲間のMさんと誓願寺に行って参りました。

丸子城アク

 静岡県静岡市駿河区丸子にあります。

*鎌倉時代の初期、源頼朝が両親の供養の為に建立したということです。

 頼朝の父親と言えば、平清盛と権力闘争を繰り広げ、最後には敗死した源義朝さんですね。

 義朝さんも、息子の頼朝がかたきを討ってくれて、立派なお寺まで建ててくれて、あの世で喜ばれたことでしょう。

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 誓願寺の山門です。

*戦国初期、今川家の家督争い「花倉の乱」で戦火に巻き込まれ、誓願寺は焼失してしまいました。

 その後、武田信玄が再建しました。

 また、この寺は豊臣家滅亡に因縁があるとのことです。


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 解説版です。

*主人公は片桐且元です。

 片桐且元は豊臣秀吉の配下として、賤ヶ岳の七本槍と称えられる戦功をあげ、次第に豊臣家で重きをなして行きました。

 豊臣秀頼の代には、重臣に列せられていたということです。

 一方、関ヶ原の戦いで天下を手に入れた徳川家康は、豊臣家をなんとか滅ぼせないかと策をめぐらせていました。

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 お堂です。

*豊臣家が、寺に置く鐘を造りました。

 そこには「国家安康」の文字が記されていました。

 国の康からんことを願う、普通の文言です。

 しかし、徳川家康にとってはトラブルの口実にぴったりだったのです。

 「徳川家康の、家と康を別の文字で引き裂いている。これは家康を呪う魂胆だ。ケシカラン!」と因縁をつけたのでした。

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 墓所への案内表示です。

*片桐且元は、豊臣家を代表して、徳川家康へ弁明に向かうこととなりました。

 当時、徳川家康は駿府におりましたが、片桐且元は駿府に入ることを許されませんでした。

 片桐且元は仕方なくこの、誓願寺に長逗留しました。

 一方、当時豊臣家の実権を握っていた淀君の乳母はすんなりと駿府にて家康に謁見でき、鐘の文言を攻められることなく、慰撫されました。

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 墓所が見えてきました。

*その後、片桐且元は家康の部下から、「鐘の文言で大御所(家康)様は大変お怒りである。大御所様の御意向を伝える。豊臣家は配置換えを受け入れるか、淀君を人質に出すように!」と告げられて、大阪城に戻りました。

 淀君と秀頼の側近たちは、乳母の説明と、片桐且元の説明の食違いの大きさに驚きました。

 側近の中には「片桐且元は家康に気に入られようとして、勝手なこと言ってんじゃねえの?」と言い出す人もいました。

 片桐且元は大阪城に居辛くなり、大阪城を後にしました。

 徳川家康は、豊臣家の勢力分断に成功しました。

 片桐且元は、上手く利用されてしまったのでした。

 その直後、家康は豊臣家へ宣戦布告しました。

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 夫婦仲良く墓石が並んでいます。

*家康は、片桐且元を配下に招きました。

 片桐且元は家康の配下として、大坂冬の陣と夏の陣を闘いました。

 そして、豊臣家滅亡の20日後、この世を去りました。

 病死であるといわれています。

 また、恩ある豊臣家を滅ぼすきっかけに自分が加担してしまったことを嘆き、自刃したのだとする説もあります。

 片桐且元の子が、ここ誓願寺に墓所を設置したということです。

 片桐且元の遺言があったのでしょうか?

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 誓願寺の前には、丸子城の解説版があり・・・

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 丸子城を見上げることができます。

 丸子城とセットで訪問されてみてはいかがでしょうか。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「史跡などの部屋」
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