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蕃松院 ~ 依田信蕃墓所

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成27年5月20日、蕃松院に行って参りました。

龍岡アク
 長野県佐久市田口下町にあります。

 有名な観光地「龍岡城」のすぐ北なので迷うことは無いと思います。

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 天正8年に整備されたと書かれています。

 蕃松院には、依田信蕃の墓所があります。

*依田信蕃は佐久の春日に本拠を置いた武将で、武田家に仕えていました。

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*武田家の遠江侵攻後、遠江二俣城の守備につきました。

 長篠の戦いで武田家は壊滅的惨敗を喫し、 「二俣城」 には徳川勢が攻めよせました。

 武田家のダメージは深く、二俣城への援軍は来ませんでした。

 それでも依田信蕃は二俣城を堅持し続けました。

 半年経っても落城しないことに困り果てた徳川家康は和議を申し立てました。

 「兵士の皆さんに危害を与えることはありません。城代の依田さんにも手出しをしません。人質も要求しません。ですから、どうか、城を明け渡して下さい。」

 依田信蕃は、城内をきれいに掃き清め、兵士をまとめ、整然と退去しました。

 他の城の場合、城兵は我先にと散り散りに逃げ出すケースが多かったので、徳川家康は、依田信蕃の統率力に感嘆をしたとされています。

 依田信蕃は、高天神城を経て、今度は駿河 「田中城」 の守備につきました。


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 山門です。

*徳川軍はやがて、田中城を包囲しました。しかし、信蕃の守りは固く田中城は落ちる気配を見せません。

 同時期に織田軍が甲斐へ侵攻し、武田勝頼は自刃、武田家は滅亡しました。


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 本堂です。

*徳川家康は、依田信蕃へ「主家が滅んだ今、異国の地で、誰の為に籠城を続けるというのだ。城を明け渡しなさい。二俣城の時と同じに、城兵へ危害を加えることは無い。」と伝えました。

 依田信蕃は、「敵から聞いた情報で城を明け渡すことはできない」と一度は断りましたが、織田、徳川連合軍に降った武田家臣から、勝頼自刃は間違いないことを確認すると、田中城を明け渡し、信州佐久春日郷へ引き上げました。


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 本堂に向かって左側の奥へ進むと、墓所への案内表示があります。

*直後に本能寺の変が発生しました。

 武田領を併呑したばかりの織田家は混乱し、旧武田領は上杉、北条、徳川の草刈り場になりました。

 徳川家康は、依田信蕃へ配下につくよう要請しました。

 依田信蕃は、二度の開城の再、約束を守った徳川家康の心義に応じ、臣下の礼をとることとしました。

 信濃へは、北条の大軍が侵攻し、一時佐久は北条の支配下となりました。


 依田信蕃は、 「三沢小屋」 を拠点にゲリラ戦を展開し、北条軍の糧道を断った為、北条は佐久を手放すこととなりました。

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 これが、依田信蕃さんのお墓ですね。

*佐久は、依田信蕃に与えられ、依田信蕃は田口城主となりました。

 しかし、依田信蕃の支配下に置かれることを嫌った在地武将もいました。

 依田信蕃は 「望月城」  、 「前山城」 を落とすと、 「岩尾城」 へ攻めかかりました。

 ところが、好事魔多し、依田信蕃は討ち死にしてしまいました。


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*依田信蕃の跡目は、信蕃の子が継ぎました。

 徳川家康は、依田信蕃の貢献を高く評価していました。

 信蕃の子に、「松平」の名乗りを許し、また、家康の「康」の字を与えました。

 信蕃の子は「松平康国」となりました。

 松平康国は、父信蕃の墓所をここに定め、寺名を「蕃松院」と改めました。


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 依田松平家は、その後、トラブルが続き、とりつぶされていしまいました。

 江戸時代、この地を治めた歴代領主たちは、蕃松院を手厚く庇護したそうです。

 1760年、落雷により本堂が消失しました。

 その消失した本堂の上に乗っていた瓦が展示されていました。

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 これがその瓦です。

 立派ですね。

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 蕃松院の遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「史跡などの部屋」
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Comment
Re: お恥ずかしいですが。
Butch様 お返事ありがとうございます。
 丸子城と渡河作戦ですか。斬新ですね。
 これまでの常識にとらわれない発想の中から、得てして真実は見つかるものです。
 攻城側が、北尾根に攻めよせることが大いに想定される状況があったことだけは
確かですね。

 八幡平の城、高橋の城は未訪です。以前から目はつけており、この冬あたり行って
みたいと思っております。

 現地での妄想戦闘は私も得意です。(笑)
 同行のMさんと、攻める側、守る側にわかれて、特に導入路に関してケンケンガク
ガク・・・
 これが楽しいですね。結果、目立たぬ迂廻路や、隠し小口を見つけることもありま
す。
 昨日、小田城と真壁城のお絵かきが終わったので・・・
 今日は、丸子城のお絵かきです。
 それでは!
お恥ずかしいですが。
お恥ずかしいですが、自分は活字は苦手で歴史背景にも疎く、縄張り図を見たり現場で転げまわったりで妄想模擬戦闘を楽しんでいる変人です(苦笑) 結果近年では時間がかかり仲間と出かけても現場に捨てられます(笑)

丸子城については 思うところ などというほどのものではありませんが・・・
安倍川退却渡河作戦時丸子宿に集結した人員、物資に関した遺構ではなかったかと?この山をとられると危険とのことでの築城か?渡河待ちの護衛部隊の主力は東海道を遮断し狙撃部隊を丸子城に配備する・・・追撃部隊は正面突破できず丸子城を奪おうとするが南斜面は挟撃される危険があるので余力を迂回させ北西斜面に向かうだろう・・・渡河作戦が終了したら殿部隊も城に入り狙撃隊と共に夜陰にまぎれて北尾根から脱出する・・・以上です(苦笑)
渡河退却作戦の為の一時にかけた集中工事が行われたのではないかと?
歴史にはあまり詳しくなく そのような状況が実際あったのかもさっぱりわからない無茶苦茶な妄想ですね・・・

ところで八幡平の城、高橋の城は行かれましたか? 丸子城的なすごく面白い物件ですよね、ここも立地が今一わからず・・・

それでは長々と失礼しました、五遁様の目から鱗の考察楽しみにしています!
Re: お早うございます。
Butch様 ご来訪ありがとうございます。

 地元のお年寄りにつかまるは、遠征あるあるですね。
 お年寄りは話し相手がいないと、ストレスがたまって、暴走老人になってしまうという話を聞いたことがあります。
 暴走老人発生を未然に防ぎ、そして、社会の平和を守ることに貢献したと思い、自分をほめるしかありませんね。

 丸子城の疑問を共有して下さる方がいらして、心強く思います。
 正に、「自分だけではないんだ!」ですね。
 これで、私も暴走縄張りオタクにならずに済みそうです。
 Butch様の「思うところ」・・・
 差支えなければ、お伝え頂けないでしょうか?
 一人で思案していて、袋小路にはまっております・・・
お早うございます。
お邪魔します、蕃松院ですね!ここの道反対側にある雑貨店でお話を聞けたのですが・・・何を耕作していたか?なぜ北面を開墾したのか?開墾前の様子など詳しく教えていただいたのですが記憶に残っていません(恥)遠征中地元の方につかまり逃げられなくなり困ってしまう事ありますよね、どうでもいい話も多くて・・・

丸子城は五遁様と全く同じ理由を疑問に持っていました、これに関する記事等を見たこと無かったので自分だけかな~と思っていましたのでとても嬉しいです。  
自分も地形図とニラメッコしたり、駿遠の武田が関与したと思われる城と比較したり・・・思うところ有り ですので五遁様のレポートが待ち遠しいです!
それでは失礼いたします。
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