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群馬県岩櫃城② ~ 真田幸隆築城

 岩櫃城の続きです。

 

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     登り口には、解説版があります。本城域の平面図もあります。

 

 中之条町歴史資料館発行の冊子によると・・・

 1560年、上杉謙信が関東に進出すると、吾妻を領していた斉藤氏は、謙信の傘下となります。

 上杉謙信の力が大きくなりすぎることを恐れた、武田信玄は、真田幸隆に同地の攻略を命じます。

 1563年2月、武田信玄は、北条氏康と共に、上杉方となっていた武蔵松山城を攻略し、上杉の勢力を後退させます。

 

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              登り始めると幾重もの塁壁が・・・

 

 松山城奪取から約半年後の10月、真田幸隆は、嫡子信綱、三男昌幸、弟の矢沢頼綱ら2,500騎で、斉藤氏の本拠「岩下城」を囲みます。岩下城には、上杉方の白井長尾氏が援軍として駆けつけます。

 

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              中城です。けっこう広いですよ。

 

 真田幸隆は、力攻めによる兵の損失を恐れ、偽りの講和を結び、安心した援軍は撤退、更に斉藤氏配下へ調略の手を伸ばし、これに成功。

 

 万全の体制が整ったところで、岩下城を急襲! 城内では内応者が放火し、混乱の中、岩下城は落城、真田幸隆の手に落ちます。

 

image291475[1]

   中城から、西へ下ると、殿屋敷があります。居館の跡と思われます。

 

 真田幸隆は、岩下城を奪取しましたが、岩下城の規模の小ささ、防御思想の古さ、立地の悪さに鑑み、新たな拠点として岩櫃城を取り立てました。

 

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         殿屋敷を別角度から・・・ くどくてすみません。

 

  1556年には、斉藤氏の残党が篭った嶽山城も奪取し、真田幸隆の吾妻計略はここに、達成されたのでした。

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 この城の凄いところは、柳沢城とのラインさえ突破されなければ、平沢盆地を生産拠点としながら持久できるところです。また、平沢盆地を駐屯地と考えると数万の軍勢が篭る事が出来ます。

 

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       岩櫃城の特徴をなす、放射状の竪堀のうちの1本です。

 

         城兵の出撃路としての役割もあったようです。

 

 1573年、武田信玄が没すると、翌1574年、後を追うように真田幸隆もこの世を去ります。

 

 嫡子、信綱が跡を継ぎますが、1575年、長篠で武田勝頼が惨敗、真田家当主の信綱は戦死、三男昌幸が跡を継ぎます。

 

 次回へ続く・・・

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

 

 > 「群馬の城」
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Comment
Re: 岩櫃城築城について
お師匠 本日、本屋で見た真田三代を取り上げた新書では、やはり、加沢記への疑問が呈され、真田幸隆岩櫃築城説が記載されていました。
楽しい輪!
妙義の毛虫様 御来訪ありがとうございます。

 楽しい歴史談議の輪が広がり、嬉しく、有り難く思っています。

 また、お気づかい頂きかたじけなく感謝申し上げます。

 さて、私はお師匠のお人柄を敬愛申し上げております、一途で、熱烈で、表裏が無い方です。

 さてさて、「加沢記」羽尾入道と鎌原氏のくだりも他の資料には出て参りませんので、どう
なのかな? と思い始めています。

 私はブログを始めた頃、「加沢記」を信じておりました。「加沢記」をもとにしたレポートも
多く発信しております。

 いつかの段階で、レポートを全て修正せねばなるまいと・・・



> そうなんですよね。最近では教科書の歴史も?が付く様になりました。自分が正しいと思った事を投稿して論議対象とする程度が良いようです。自論を押しつけ、他人の意見に変な攻撃をすると、これを見ている他の人が気分が悪くなり、参画したくともできなくなってしまいますね。老い先短い老人より。
> 別件ですが、加沢記の羽尾入道と鎌原氏との米無山付近の戦闘ですが、源平時代の源氏と樋口氏との戦いと概ね似ていますね。加沢記はこれを参考にしてるのですかね?
>  いろいろな人がもっといろいろな意見がでてくると、もっと面白いのですがね。どだいここは学会ではないのですから!
そうなんですよね
そうなんですよね。最近では教科書の歴史も?が付く様になりました。自分が正しいと思った事を投稿して論議対象とする程度が良いようです。自論を押しつけ、他人の意見に変な攻撃をすると、これを見ている他の人が気分が悪くなり、参画したくともできなくなってしまいますね。老い先短い老人より。
別件ですが、加沢記の羽尾入道と鎌原氏との米無山付近の戦闘ですが、源平時代の源氏と樋口氏との戦いと概ね似ていますね。加沢記はこれを参考にしてるのですかね?
 いろいろな人がもっといろいろな意見がでてくると、もっと面白いのですがね。どだいここは学会ではないのですから!
Re: 楽しいですね
M様 御来訪ありがとうございます。

 そうなんですよね。「加沢記」は創作や脚色が多いというのが、近年の評価ですよね。
 真田家やその家臣の華々しい活躍を創作して、身内の皆さんの気持ちを高めようとする
意図があるようですね。

 作者は「関東幕注文」等の資料を確認する機会が無かったのでしょうね。

 いずれにしても「加沢記」以外に、「真田幸隆が岩櫃城を攻めとった」という記述は、
無いのです。

 そして、「加沢記」は、他の資料と整合性がつかず、信頼性が低いと評価されているの
です。

 つまり、「真田幸隆が岩櫃城を攻めとった」という記述は信頼性が低いと評価されてい
るのです。

 では、真田幸隆が攻めとったのは、どの城であるかとすると、これはまだ論議の途中で
しょうが、斉藤氏の本拠であれば岩下城と考えるのが無理のないところであると思われま
す。しかし、歴史に絶対はあり得ませんから、様々方面から、様々な可能性を考えて論議
を広げる必要があると思います。

 また、その論議の過程は歴史ファンにとっては、この上ない醍醐味であり、楽しみ、喜
びであると思います。

 楽しい論議を広げたいですね。
楽しいですね
「加沢記」の評価は、現在2次資料以下だと思います。
「加沢記」以外いに「岩櫃」の記述がある資料がないようです。また、感状に年号が使われることはないようです。
信玄の感状が現存していないのならば、やはり謎という事で、色々議論ができればと思います。
Re: 城の腰の砦について
妙義の毛虫様

 棚下の砦、発地館、小中城、城ノ腰砦、薄倉城等数えきれない御助言を頂きありがとうございます。

 城ノ腰砦については、下城等遠方から視認しただけで、踏査していない部分も多いので、いつかまた訪問したいと思います。

 現在の感想としては、中道院からの道は大手ではなかったのでは? 北側の下城からの道が大手ではなかったのかと妄想しております。

> 以前城の腰へは南側の台地からもしかしたら大手といわれる所から登りましたが、尾根から下って沢を渡った平場辺りが下曲輪的かなと思いました。但し、ここが兵を常駐させる様な砦だとしたらの場合ですが。当時の道が今の県道辺りだとしたら、南側の方が妥当かもしれませんね。私の勝手な想像です。中道院の住職が沢に落ちて亡くなってしまったため、火葬関係(薪の採取場など)80才過ぎの人を探して聞かないと判らなくなりました。単なる狼煙場なら必要ないかも知れませんがね。
加沢記について
 お師匠御来訪ありがとうございます。ホットな話題をありがとうございます。

 さて、戦国時代の歴史を実際にその目で確認した人は、現在一人もいません。有名大学の教授でも実際には見ていません。そこで資料を集め、資料間の整合性を検証しながら、整合性が持てない資料をはじいていって、真実へ近づいていこうという手法が用いられています。

 随分昔は、甲陽軍艦、加沢記、北条記、依田記等の記述がそのまま真実であると認識され、日本城郭体系や群馬の古城等の歴史書もその認識をもとに記述されていました。

 しかし、新たな資料と自由な論戦の結果、前述の資料は「全てウソではないにしろ、全て真実であるとは言えない。かなり疑ってかかるべきである」とするのが現在の主流となっています。

 真田町の資料では、真田町の城は全て真田氏が構築したものとし、真田氏城塞群として紹介されていた時期がありました。しかし、最近は、真田氏は松尾古城周辺のみを所有する極小土豪であり、その他の城郭は横尾氏や矢沢氏などの城郭であったとする説が主流です。

 しかし、今主流でも、10年後は新説が出るかもしれません。

 加沢記と合致する資料が今後大量に発見されれば、また、主流は変わることでしょう。いずれにせよ自由な論争が、新たな歴史を切り開いているのは事実です。

 歴史論争をするのは大学教授だけの特権ではありません、素人の感想レベルで楽しみませんか?

 今度、高崎あたりで一杯やりながら大いに盛り上がりませんか?







> 歴史には実際あったことであるからして真実があるのが当然です。この真実を見極めるため歴史学があり、我々趣味とはいえ、その一歩を歩いているつもりです。妄想でよいなら、ブログで公開する価値はありません。
>  真田町史で書かれている文書は長野県史の資料編を調べれば掲載されているでしょう。真田幸隆が自分で築城したものを、信玄が岩櫃城乗っ取りと感状を出すわけはありません。
>  「斎藤越前入道から離反し武田家へと寝返るという企てについて聴きました。貴方がたの忠節は岩櫃城を乗っ取る局面でまことに比類無き素晴らしい物です。近い内に私自身が岩櫃城へ赴き<斎藤 弥三郎>が武田家に寝返った事は私の命令であったと公表しましょう。安心してください。細かい事などは<室賀 入道>に従って甲府へと報告してください。
> 永禄6年 壬亥 12月12日
>
>                  信玄  (在判)
>              今度の戦で忠節を尽くしてくれた皆へ 
>
> 昨年に岩櫃城を落としてからずっと、斎藤家家臣だった者達の妻子を人質として岩櫃城内に置いておきましたが、またいつどこで戦が始まるか判らない時勢でしたのでこのまま岩櫃城に人質を置いておくのは不安が大きすぎると思った<鎌原 宮内少輔>は息子の<鎌原 筑前守>を甲府へと遣わして武田家へと相談いたしました。
>
> その態度が神妙であると、信玄公が次の書状をくださいました。
>
> 「岩下城においてある人質をどうするかで悩んでいると聞きました。<三枝松 土佐守>と談合して務めに励んだのは大変によろしい事です。貴方が申した通り、結局の所、人質達は甲府へと移しなさい。<斎藤 弥三郎>にそのように下知を与えます。
>
> そうは言えども、最前線を守る貴方達の忠信は他に比べる物が無いほどのものです。なお、<甘利 利左衛門>を遣いに出して下知を述べさせましょう。
>
>      永禄7年 甲子     正月22日           
>                              信玄(朱印)
> 加沢記の訳文を引用したものです。この文書は群馬県史の資料編に掲載されているでしょう。この文面からは岩櫃城を落とし、その人質をどうしたものか、信玄に相談したところ、信玄は岩櫃城に関係した岩下城と言ったもので本意は岩櫃城の人質であることは明らかです。いずれにしても岩下城を乗っ取りなどとは書かれておらず、岩櫃城とされているのも明白です。真田幸隆が築城したなどの説は文書を無視したでたらめな説で学会にも提出される内容でもありません。曖昧模糊、妄想のレベルにしてしまうのは勝手ですが、このサイトのブログを読む数万の読者に対しては、まじめに真実を追究していく姿勢は持っていくことが大切なのではないでしょうか?
>  
>  
城の腰の砦について
以前城の腰へは南側の台地からもしかしたら大手といわれる所から登りましたが、尾根から下って沢を渡った平場辺りが下曲輪的かなと思いました。但し、ここが兵を常駐させる様な砦だとしたらの場合ですが。当時の道が今の県道辺りだとしたら、南側の方が妥当かもしれませんね。私の勝手な想像です。中道院の住職が沢に落ちて亡くなってしまったため、火葬関係(薪の採取場など)80才過ぎの人を探して聞かないと判らなくなりました。単なる狼煙場なら必要ないかも知れませんがね。
岩櫃城築城について
歴史には実際あったことであるからして真実があるのが当然です。この真実を見極めるため歴史学があり、我々趣味とはいえ、その一歩を歩いているつもりです。妄想でよいなら、ブログで公開する価値はありません。
 真田町史で書かれている文書は長野県史の資料編を調べれば掲載されているでしょう。真田幸隆が自分で築城したものを、信玄が岩櫃城乗っ取りと感状を出すわけはありません。
 「斎藤越前入道から離反し武田家へと寝返るという企てについて聴きました。貴方がたの忠節は岩櫃城を乗っ取る局面でまことに比類無き素晴らしい物です。近い内に私自身が岩櫃城へ赴き<斎藤 弥三郎>が武田家に寝返った事は私の命令であったと公表しましょう。安心してください。細かい事などは<室賀 入道>に従って甲府へと報告してください。
永禄6年 壬亥 12月12日

                 信玄  (在判)
             今度の戦で忠節を尽くしてくれた皆へ 

昨年に岩櫃城を落としてからずっと、斎藤家家臣だった者達の妻子を人質として岩櫃城内に置いておきましたが、またいつどこで戦が始まるか判らない時勢でしたのでこのまま岩櫃城に人質を置いておくのは不安が大きすぎると思った<鎌原 宮内少輔>は息子の<鎌原 筑前守>を甲府へと遣わして武田家へと相談いたしました。

その態度が神妙であると、信玄公が次の書状をくださいました。

「岩下城においてある人質をどうするかで悩んでいると聞きました。<三枝松 土佐守>と談合して務めに励んだのは大変によろしい事です。貴方が申した通り、結局の所、人質達は甲府へと移しなさい。<斎藤 弥三郎>にそのように下知を与えます。

そうは言えども、最前線を守る貴方達の忠信は他に比べる物が無いほどのものです。なお、<甘利 利左衛門>を遣いに出して下知を述べさせましょう。

     永禄7年 甲子     正月22日           
                             信玄(朱印)
加沢記の訳文を引用したものです。この文書は群馬県史の資料編に掲載されているでしょう。この文面からは岩櫃城を落とし、その人質をどうしたものか、信玄に相談したところ、信玄は岩櫃城に関係した岩下城と言ったもので本意は岩櫃城の人質であることは明らかです。いずれにしても岩下城を乗っ取りなどとは書かれておらず、岩櫃城とされているのも明白です。真田幸隆が築城したなどの説は文書を無視したでたらめな説で学会にも提出される内容でもありません。曖昧模糊、妄想のレベルにしてしまうのは勝手ですが、このサイトのブログを読む数万の読者に対しては、まじめに真実を追究していく姿勢は持っていくことが大切なのではないでしょうか?
 
 
Re: 6月2日、岩櫃城探検隊の城めぐりがあります。
箕輪初心様 お久しぶりです。

 松井田城ツアーありがとうございました。

 探検隊の情報、ありがとうございます。

 当日は別件があり、参加できませんが、何かの機会に当日の様子をお伝え頂ければ
幸いです。

 楽しんでいらしてください。

                                 武蔵の五遁

> 今日は、箕輪初心です。松井田城ではお世話になりました。
> 岩櫃城にも行って来られたのですね。凄い城だったでしょう。でも、もしかしたら、見ていらっしゃらない曲輪があるかもしれません。6月2日、あざみの会の岩櫃城探検隊の細かい説明があります。来られるようでしたら、申し込みはコニファー岩櫃です。
6月2日、岩櫃城探検隊の城めぐりがあります。
今日は、箕輪初心です。松井田城ではお世話になりました。
岩櫃城にも行って来られたのですね。凄い城だったでしょう。でも、もしかしたら、見ていらっしゃらない曲輪があるかもしれません。6月2日、あざみの会の岩櫃城探検隊の細かい説明があります。来られるようでしたら、申し込みはコニファー岩櫃です。
Re: 岩櫃城について
妙義の毛虫様 御来訪ありがとうございます。

*中之条歴史資料館は言い回しを替えただけで修正はしてないですね。
⇒同感です。

*岩櫃城(岩下城)としているだけで、いづれの書面も多分後世の人が書いたものでしょうね。
⇒同感です。

*守るべきは平沢地区で岩下城を含む周辺の砦等を真田が攻めた事を100年も後の人がいっぱひとからげで岩櫃城といったのですかね!なにせ数年後には岩櫃城はあったのですから。
⇒同感です。

*個人的には手子丸城も無かったのでは無いかと思っています。
⇒私も初期のブログでは加沢記を元に記述をしておりまして、大戸氏が真田に殉じたことを信じていましたが、最近の資料では、大戸氏はいち早く北条氏に加担しており、手子丸城や仙人窟城の攻防は無かったのではないかと思い始めておりました。

*矛盾が沢山あるため。趣味の世界ではこういう事を言い合うのも面白いですよね。歴史には事実というものはないのですから。
⇒まったくの同感です。様々な可能性を妄想し、語り合うことが歴史趣味の楽しみであると思います。

⇒重ね重ね、薄倉城の件はありがとうございました。今後ともご指導頂ければ恐悦至極にございます。
八崎城について
もののついでで申し訳ありませんが、後ほど八崎城もアップされるのでしたら、五遁さんは間違えないと思いますがりんご畑が本郭の東端で2の丸は城の内とよばれ現在は住宅が建て込んでいます。新曲輪は川の南側で大半は高速道路の南側になります。畑地西側の道路の西で西半分は荒れ地(薮)になっていました。本丸も西側の崖まで行こうと思えば行けます。以前の棚下の砦や薄倉中城の様に城ありきでいくと勘違いが入る場合があります。足利の多田木城などがいい例となります。渡良瀬の河川工事や道路の砂利取りの為山を2つにされ東側の古墳の石は殆ど運び出されその時の作業で腰曲輪が沢山できた様です。
岩櫃城について
どうでもいいことですが、中之条歴史資料館は言い回しを替えただけで修正はしてないですね。岩櫃城(岩下城)としているだけで、これは以前から言われていることです。加沢記をベ-スのいろいろな古文書のなかでも面白いことが判りますよ。岩櫃城の人質の取り扱い指示の書面に対して、信玄からの返書は岩下城の人質と書かれています。いづれの書面も多分後世の人が書いたものでしょうね。守るべきは平沢地区で岩下城を含む周辺の砦等を真田が攻めた事を100年も後の人がいっぱひとからげで岩櫃城といったのですかね!なにせ数年後には岩櫃城はあったのですから。個人的には手子丸城も無かったのでは無いかと思っています。矛盾が沢山あるため。趣味の世界ではこういう事を言い合うのも面白いですよね。歴史には事実というものはないのですから。聖徳太子もいなかったかも・・・と言われています。
Re: 岩櫃城築城について
お師匠 御来訪ありがとうございます。

 私は、群馬の古城や、群馬の中世城館跡から、お城と歴史の世界に入りました。
 しかし、その後色々と調べていくうちに、様々な矛盾が感じられ困惑しておりました。
 そして、ある日気がつきました。「加沢記」を無視して考えれば、矛盾は大きく減少し
様々な事象の辻褄があって来ることに・・・・
 真田町史の記述も「加沢記」を元にしているとしたら、素直に受け取れません。
岩櫃城築城について
『岩櫃城は羽尾幸全の弟、海野長門守・同能登守と斎藤憲広の甥斎藤弥三郎が幸隆に内応したため、城は内部から崩壊し、さしもの堅城も永禄六年十月十三日ついに落城した。・・・この戦いに功績のあった諸将に信玄から十二月に、次のような感状が出されている。
「斎藤越前守逆心を企て候の処、各々忠節、岩櫃乗取りの条まことに比類なく候」(下略)「真田町誌」より
 このように信玄は幸隆に感状を出し、この文書は信濃に残っています。岩櫃城の幸隆築城説は群馬の有力な郷土歴史家が新説として唱えたらしいですが、明らかに誤りです。中之条歴史資料館でもこの新説を紹介していましたが、この文書があると、私が指摘したところ修正されました。
 考えても倅に要害、嶽山城に籠もらせ、自分は要害性で劣る岩下城を本城とするわけはないはずです。岩櫃城は斎藤氏の主家にあたる吾妻氏がすでに築城していました。下克上によって吾妻氏を滅ぼし、岩櫃城を斎藤氏が乗っ取ったのが事実です。
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