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相賀城(6) ~ たばかりに滅ぶ

 相賀城の最終話です。

相賀城イメージ図
 縄張り分類的には「連郭式」に入るのでしょう。

 基本形は単純でありながら、随所に小技が利いて面白い城だと思います。

 歴史の経過の中で、改修が加えられ続けたのではないでしょうか?

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 南側から、本郭の塁壁を見上げました。

*さて、相賀城主相賀氏は、室町期、戦国期を通して、この地区で土豪として存在を続けておりました。

 しかし、そんな相賀氏を時代の波が襲います。


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 引き続き本郭を取り巻く横堀の底を歩いています。

 土塁の途切れた場所があります。

 更に進むと・・・

*鹿島・行方地区には、鹿行三十三館と呼ばれる城塞があり、それぞれに土豪が治めていました。

 それらの土豪たちは、大掾氏の影響を受ける存在でした。


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 堀底が舗装されています。

*1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が生起しました。

 秀吉は諸将へ参陣を呼びかけましたが、大掾氏は参陣しませんでした。


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 本郭へ向けて、階段が伸びています。

 往時は、当然、この道は無かったと思われます。

*一方、同じ常陸の国の佐竹氏は参陣したため、常陸一国は佐竹氏へ与えられました。

 佐竹氏は、大掾氏を攻め滅ぼすと、鹿行三十三館の土豪たちへ手紙を出しました。


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 本郭へ登ってきました。

*「皆さんの所領について相談したい。花見でもしながら仲良くやりましょう。」

 鹿行三十三館の当主と嫡男たちは、佐竹氏の常陸太田城へ集まりました。

 その中には相賀氏もいました。


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 本郭に鎮座する八幡神社の解説版です。

*ところが常陸太田城からは誰一人生きて帰る者はありませんでした。

 謀殺に成功すると、佐竹氏は軍勢を鹿行三十三館へ差し向けました。


IMG_0794.jpg
 本郭の北側には、本来の小口であると思われる窪みがありました。

*当主不在で、戦闘の準備もしていなかった城は次々と落城しました。

 相賀城も同じ運命をたどり、相賀氏は滅亡したということです。


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 本郭からの、北浦の眺めでお別れです。

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