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臼井城(1) ~ 太田道灌攻囲

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成27年1月10日、臼井城に行って参りました。
 千葉県佐倉市臼井にあります。

本佐倉アク
 これがダイタイの位置がわかる地図です。

 私は、場所が判らず、まわりをぐるぐると大まわりで2周してしまいましたので、次の方が同じ苦しみをあじあわわないように、より、詳しい地図を掲載します。

臼井アク
 国道296号線中宿交差点から、県道64号に入り、北へ向かいます。

 初めての信号には、信号名はついていませんが、臼井幼稚園入口の看板が設置してあります。

 その交差点を臼井幼稚園への矢印とは反対方向、つまり、西側に曲がり、すぐに右へ曲がり、細い道を登っていくと、右側に駐車場があります。

IMG_9394.jpg
 ここです。

 この看板の脇に「臼井城跡」の看板も設置して頂けると嬉しいのですが・・・

IMG_9310.jpg
 三郭には、臼井妙見社が鎮座しています。

*臼井城は、千葉氏分流臼井氏の城で、創始は不明ですが、室町期には存在していたようです。

 室町時代、関東では関東管領山内上杉家と、古河公方が対立していました。

 千葉氏と臼井氏は古河公方派でした。


IMG_9309.jpg
 臼井城築城の時、城の鬼門の地に創建された社のひとつと言われているそうです。

*1477年、山内上杉家の家臣長尾景春が主家に背き、兵を挙げました、長尾景春は古河公方へ合力を頼み、古河公方はこれに応じました。

 山内上杉家では、同族の扇谷上杉家の家臣太田道灌が、景春反乱鎮圧の最前線に立ちました。

 要約の図式としては・・・

 「山内上杉・扇谷上杉・太田道灌」 VS 「臼井氏、千葉氏、古河公方、長尾景春」

 となります。


臼井城
 戦国期には、総構えも構築され、巨大な城郭であったそうですが、総構えのほとんどは宅地化により、破壊されてしまっています。

 室町期には、本郭と二郭程度の規模であったと思われます。

*大田道灌は、埼玉県と神奈川県の景春与党を撃破すると、返す刀で、千葉氏と境根原で激突しました。

 当時、無敗を誇った大田道灌の軍略の前に、千葉氏は大敗し、臼井氏の守る臼井城へと逃げ込みました。

 大田道灌はただちに臼井城を囲みましたが、千葉氏も粘り強く抵抗し、籠城は7カ月にも及びました。


IMG_9312.jpg

*太田勢は、城の囲みをといて、引き上げようとしました。

 そこへ、千葉勢が城から討ってでました。

 太田勢に油断があったのでしょうか、大田道灌の弟「太田図書(資忠)」をはじめ、53名が討死しました。


IMG_9313.jpg
 太田図書の墓です。

*始めは押されていた太田勢はやがて押し返し、千葉氏と臼井氏は城を捨てて敗走しました。

 千葉氏は、本拠で力を蓄えることとなりました。

 その後も戦乱は続き、厭戦ムードが高まり、関東管領と古河公方は和睦しました。


IMG_9314.jpg
 「A」から「B」へ至る土橋です。

*しかし、上司同志は手をつないだのに、部下である大田道灌は千葉氏との抗争を止めようとはしませんでした。

 弟を殺された私怨が、名将の判断を狂わせたのでしょうか?

 上司の言うことを聞かない道灌は次第に疎まれ、主君扇谷上杉定正に謀殺されてしまいました。


IMG_9315.jpg
 土橋には、二郭から横矢をかけられるようになっています。

 「臼井城第2話・上杉謙信攻囲」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「千葉の城」
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