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本佐倉城(7) ~ 幅広屈曲堀

 本佐倉城の第7話です。

IMG_9237.jpg
 「L」から、堀越しに三郭を撮影しました。

 三郭の方が重要な郭なので、高くなっていますね。

IMG_9238.jpg
 堀底へ下って参ります。

本佐倉セッテイ
 「L」と三郭の間に土橋はありません。

 堀幅が広いので、木橋を架けることも難しかったことでしょう。

IMG_9239.jpg
 堀底に降り立ちました。

 攻城兵が五郭と「L」を制圧しても、結局はこの堀底に下らなければなりません。

 そして、三郭からの頭上攻撃にさらされることとなります。

 堀底を南へ向かいます。

IMG_9240.jpg
 堀底は屈曲し、先を見通せないようにしてあります。

 更に南へ進みます。

IMG_9241.jpg
 こちらも奥の方で左に屈曲しています。

 今度は堀底を引き返して、北へ向かいます。

IMG_9171.jpg
 北側には、東光寺ビョウと呼ばれる広い郭があります。

 「O」からは、門柱が発見され、小口であったということです。

IMG_9170.jpg
 南奥小口だそうです。

 城内では北側に位置するのに何でかな?と思いましたが、東光ビョウの南奥にある小口という意味のようです。

 東光寺ビョウは、敵兵が船で乗り付けると簡単に上陸できてしまいますので、上陸した敵兵が更に城の中心部へ進まないように小口を設けたのでしょうか?

 「本佐倉城第8話・東光寺ビョウ」へ続く・・・

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Comment
Re: 真田氏の戦術について
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。
 室町期大等合戦に参加した土豪の名簿に、真田氏、横尾氏、曲尾氏の名が残っており、
真田郷は、少なくとも3氏もしくはそれより多い勢力が割拠していたと推定されます。
 なので統一感が感じられないのではないでしょうか。

 昌幸さんの戦術の手本となったのが、長篠合戦ではないかと推察される方がいます。
 馬防柵に引きよせ、別動隊が鳶巣山砦を襲撃し背後を脅かしました。

 第一次上田合戦では、上田城に引きつけ、砥石城から別動隊が背後を脅かしましたね。

 立花さんもそのような戦術を使っていたのですね。
 今度調べてみたいと思います。
真田氏の戦術について
武蔵様 お久しぶりです。

XPのパソコンを使っていたのですが、
7が手に入ったのでアップグレードしたところ激遅に・・。
そんなわけで、久しぶりの訪問になってしまいました。

本文とは関係ないのですが、真田氏の戦術に関して気がついたことがあるので
コメントさせてください。
真田氏の山城は在地の城をそのまま使っていたようで様式はバラバラで、
統一感がないのですが、篭城戦で有名なだけに、意外な感じがしますよね。

昌幸さんが確立した篭城戦の戦術は、城で敵を拘束し、
敵の背後を奇襲部隊が襲うというものですが、
これを真田郷の城に当てはめてみたら、意外と面白い案が浮かびました。

それは、敵軍が侵入してくると想定されるルートの山城に敵を拘束できるような、遮断線(馬防柵のようなもの)と火力を準備しておき、敵軍が進入してきたらその山城で拘束し、その背後を近くの城から出撃した部隊に奇襲させるというものです。

高い山に囲まれて、進入ルートが限定されていて、
山城が密集している真田郷ですと、こんな戦術もあるかなあ、と
考えたしだいです。

また、詳しい資料を持っていないので断言はできないのですが、
慶長の役で大活躍した立花宗重さんは、
昌幸さんの戦術を勉強している様子が伺えます。
第一次上田合戦は当時は相当なインパクトを残した合戦だったと
推測できますが、後の天下人が徳川家康さんですから
歴史の表からは消えたてしまったんですかねえ。
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