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九戸城(5) ~ 婦女子に至るまで焼殺

 九戸城の最終話です。

*九戸政実、櫛引清長、七戸家国、久慈直治、一戸実富、円子光種、大湯昌次、大里親基らは、降人として作法をもって遇されると信じていました。

 しかし、実際に待ち受けていたのは、荒々しく籠へ押し込められるという、非礼極まりない対応でした。

 タバカラレタと後悔しましたが、もはやどうする事も出来ませんでした。


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 「D」の桝形に入ってきました。

 石垣が直角に折れ曲がっているのが見えます。

*政実の弟、親実は、城を枕に討ち死にしようと、一人で戦闘態勢を整えていましたが、蒲生氏郷の士卒が鉄砲で撃ち殺してしまいました。

 政実の妻子は城外に連れ出され、殺害され、薩天和尚のいる長光寺へ送られました。


九戸城
*九戸一族、乱に加担し籠城した者はその婦女子に至るまで、二の丸の一角へ押し込められました。

 再仕置軍は、そこへ四方から火をかけました。

 火から逃れようとする者は切り殺され、刃を恐れる者は焼け死に・・・

 老若男女五千の叫ぶ声は天に響き、誰も直視できぬような悲惨さでありました・・・


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 「D」から二の丸を振り返ります。

*九戸政実らは、豊臣秀次の前に引き出された上で斬首。

 甘言をもって、ひとを騙し、武門の誇りを傷つけ、婦女子まで皆殺しにする・・・

 再仕置軍は、「京儀」のなんたるかを、東北の民へまざまざと見せつけたのでした。


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 「D」の桝形を抜けて、本丸へ入りつつあります。

*九戸城に籠った者たちの親族は、その後の追及を恐れ、以前三戸信直と敵対していた、秋田氏や津軽氏の領地へ落ち伸びたとされ、各地に落人伝説が残されています。

 大湯氏の子孫は、津軽領へ逃れ、ほとぼりの冷めた頃、津軽家の家臣として正式に登用されています。


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 本丸に入って、「D」を振り返りました。

*九戸開城をとりもった薩天和尚の心労はいかばかりであったでしょう。

 皆を助ける使者となったつもりが、皆殺しの惨事を引き起こしてしまったのです。

 これ以降、薩天和尚の名前は資料から消えてしまいます。

 苦悩のあまり、悶死されたのでしょうか?

 それとも、再仕置軍非道の語り部とならぬよう、暗殺されたのでしょうか?


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 本丸の北側から南側を撮影しました。

 この写真の石塁をイメージ図に描くのを忘れてしまいました。申し訳ありません。

*蒲生氏郷は、九戸城に石垣を積み、「京儀」の城としたうえで、三戸信直へ引き渡しました。

 本丸の石垣達は、この時の蒲生氏郷の普請であるとされています。


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 本丸の解説版です。

*三戸信直は、秀吉へ「津軽は元々南部領であり、津軽為信が横領したものである。津軽を返却して欲しい。」と訴え出ていました。

 しかし、津軽為信は三戸信直より早く、秀吉に謁見し、本領安堵の朱印状を受け取っていました。

 津軽を三戸信直へ渡すわけにはいきません。

 そこで秀吉は、津軽の代替地として、和賀氏、碑貫氏の旧領を三戸信直へ与えることとしました。


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 本丸西側の塁壁です。

*三戸信直の領土は南へ広がりました。

 そうなってみると、九戸城は領土の北に偏した場所となり、周辺の地形も狭隘であり、10万石の城下町として発展させるには難しいものがありました。

 三戸信直は盛岡城を築いて、そこへ本拠を移しました。1597年のことでした。

 九戸城は支城として存続しましたが、1636年には廃城となり、その役割を終えたのでした。


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 「C」を背後にした、本丸の全景でおわかれです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「東北の城」
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