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岡崎城(5) ~ 今川家城代支配

 岡崎城の第5話です。

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 「D」から南へ向けて石の橋が設けられています。

IMG_7217.jpg
 石橋は本丸の天守の下につながっています。

 平和の世になってから、「天守への物資運搬にいちいち遠回りしていては効率が悪い」という感じで後付けしたのだと思われます。

 戦国時代には無かったと思われますので、図には描き込んでおりません。

岡崎城
*1549年、家康の父、松平広忠は突然の死を迎えました。

 家臣岩松弥八によるテロとする説、岩松弥八は敵の刺客であったとする説、病死であったとする説があります。

 松平家が混乱し、混乱に乗じて織田家が介入することを恐れた今川家は、軍師大原雪斎を派遣して、岡崎城を接収してしまいました。

 岡崎城は、今川家の城代支配を受けることになりました。


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 「D」から西側を見下ろすと、水掘が見えました。

*この際、松平領の年貢はすべて、今川家の城代が取り上げてしまった為、松平家の家臣は生活に窮したとの伝説がありますが、実際のところはどうだったのでしょうか?

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 「D」から「E」方向を撮影しました。

 この通路を通過する間、右側の堀越しに、本郭からの射撃にさらされ続けることとなります。

*本多隆成著「定本徳川家康」によると、1555年、人質として駿河にいた竹千代は14歳を迎え、元服しました。

 名前は今川家当主の今川義元の「元」と・・・

 偉大な祖父、松平清康の「康」をあわせ、松平元康と名乗ることとなりました。


IMG_7219.jpg
 視点を本丸側にずらしてみました。

*翌1556年、亡父の墓参名目で元康は岡崎を訪問しました。

 伝説によると・・・

 元康は、岡崎城の本丸に入ることは許されなかった。

 屈辱に耐える元康に老臣鳥居忠吉が、秘かに蓄えた軍資金を見せ、時節到来を待つように励ましたということです。

 その後、今川義元の姪を嫁に迎え、所帯持ちとなるも、松平家当主元康は岡崎城へ帰してはもらえませんでした。


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 反対の東側から撮影しました。

 普通は本丸側の方が切り立っているものですが、逆ですね。

 細長い通路なので崩落防止のために石垣を積んだのでしょう。

 「岡崎城代6話・家康入城」へ続く・・・

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