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さった山陣場(12) ~ 足利尊氏の痕跡

 さった山陣場の最終話です。

 前回は由比寺尾遺構南側の解説でした。今回は北側です。

IMG_6927.jpg
 南側同様、北側にも屈曲通路があります。

さった山陣場由比寺尾遺構北
 OからSに至る屈曲通路は、北条氏の普請であると推察いたします。

IMG_6928.jpg
 「R」の屈曲部分です。

IMG_6931.jpg
 「S」の部分です。片方に土塁があり、反対側の上には平場があり、頭上攻撃を仕掛ける・・・

 北側にも同じ構造がありましたね。

IMG_6935.jpg
 北西郭の「腰郭」部分です。

 「土橋と堀切」(北西)があることは確認したのですが、撮影した写真はただの藪にしか見えなかったので、掲載は自粛いたします。

IMG_6925.jpg
 今度は、北東ににある土橋です。両脇がかすかに削ってある程度です。

 戦国期の普請であるとは思えないので、足利尊氏軍の普請であろうと「静岡県の城跡」は見解を示しています。

 しょぼい土橋は足利尊氏、屈曲通路は北条氏政。つまり、二期にわたり由比寺尾遺構は使用、普請されたと考えられています。

IMG_6923.jpg
 「に」の部分は刈り払われており、削平されていることが見て取れます。

*1569年4月24日、武田信玄は一旦甲斐へ戻りますが、6月23日には、駿河大宮城を落城させ、現在の富士宮市周辺を制圧してしまいます。

 武田信玄は、同年9月大軍を率いて今度は関東に乱入し、滝山城を落城寸前まで追い込みます。

 10月1日には、北条氏の本拠である小田原城を囲み、10月6日には、三増峠の戦いで北条軍を撃破します。

 北条氏は、駿河に置いた兵を、関東の本領防衛のため帰さざるをえませんでした。

 さった山陣場の守兵の大半もこの時、撤収してしまったと推察されます。


IMG_6922.jpg
 「に」からは、北に浜石岳を遠望できます。

*同年11月28日、武田信玄は3度目の駿河侵攻を果たします。

 12月6日、武田信玄は、さった山陣場東方にある蒲原城をせめおとしました。

 城兵を皆殺しとする、凄惨な城攻めでした。

 さった山陣場に守備兵はいなかったのか、皆殺しの報を受けて兵が逃げてしまったのか。

 この時、さった山陣場で戦闘が行われた記録はありません。

 そして、それ以降さった山陣場は使用されることなく、その役割を終えたのでした。


 今回踏査できなかった部分は冬に再訪し、追加レポートを発信させていただく予定です。

IMG_6921.jpg
 「に」からの、富士山でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「静岡の城」
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