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箕輪城(10) ~ 原初箕輪城への考察

 箕輪城の最終話です。

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 本郭の北西面には土塁が盛られています。

*1598年、井伊直正は高崎城へ移され、箕輪城は廃城となりました。

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 土塁の上から北東方向を見下ろすと、北郭があります。

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 本丸と御前郭を隔てる堀が見えてきました。

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 堀を真横から撮影しました。

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 御前郭へ至る通路の北東方向にも土塁が盛られています。

 北東方向は敵兵が展開しやすい地形なので、その備えだと思われます。

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 御前郭の解説版です。

*伝説では、長野業政が死の間際に、子の業盛を呼び、「わしの葬儀はいらぬ。敵の首をとるのが何よりの供養だ。

  関東管領へ忠節をつくし、決して敵に降ってはならない。敵に降るくらいなら城を枕に討ち死にせよ」と遺言し、長野業盛は遺言を守り、武田信玄に攻囲される中、自刃し、箕輪城は落城したとされています。

 しかし、どうでしょう?

 江戸時代の小説では、関東管領上杉憲正が越後に落ち延びた後も、長野業政は管領への忠節を守り、北条と戦い続け、上杉謙信を迎え入れたとされていますので、伝説のストーリーとつじつまが合いますが・・・

 実際は、すでにお伝えした通り、長野業政は早々に管領上杉憲正を見捨て、越後へ追い出す側となっています。

 長野業政が再び管領に加担したのは、「このまま北条の下で冷や飯を食わされるよりは、戦の天才と呼ばれる上杉謙信へ加担して、優遇される方が美味しいのでは?」と判断したからでしょうし、子の業盛へは美味しい方につけと言い残したのではないでしょうか?

 長野業盛が信玄へ降らなかったのは、若さゆえの一本気が仇となったのではないでしょうか?


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 御前郭です。

*伝説では、長野業盛がここで自刃したことになっています。

 しかし、私にはそうは思えないのです。以下、歴史素人のザレゴトですのでお聞き捨て頂ければ・・・

 箕輪城は、現在平山城に分類されています。北東面より若干高い個所に本丸が置かれているからです。


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 御前郭の北西には井戸が残っています。

*しかし、関東管領とその家臣の居城は、崖端へ本丸を置く、崖端城が多いのです。

 平井城、鉢形城、白井城などです。それであれば、管領家臣であった長野氏の箕輪城も当初は崖端城であった可能性が高いと思われます。


箕輪城
 イメージ図をご覧ください。

 標高が一番高いのは玉木山です。そして背後を白川の20メートルの断崖に守られています。

 室町時代は自然の要害地形を最大限に活用して築城するのが常でした。

 そう考えると、長野氏時代の箕輪城は、玉木山、通仲郭、通仲南のあたりが中心部で、現在の御前郭や本丸は外郭的な存在であったと考える方が自然です。

 武田信玄が箕輪城を落とした際、箕輪城の中心部が玉木山、通仲郭、通仲南であったからこそ、その防備を強化するために、武田軍が丸馬出を玉木山へ追加普請したのではないでしょうか?

 玉木山は、たましいを置く山、たまおき山がなまったものであるという説があります。

 長野業盛は玉木山で自刃した。つまり、魂を置いた・・・ 長野業盛が魂を置いた・・・

 たまおき山、たまき山、玉木山・・・

 その後も玉木山は主要な郭として使用されていた。

 時はたち安土桃山時代になると。本丸は周囲を他の郭に囲まれていなければならないといった概念が強くなり、本丸が現在の場所へ移された。

 井伊氏が入ると、長野氏の霊が置かれている場所を郭として使用し続け、兵士が踏みつけ続けていると、長野氏のたたりがあるのでは・・・

 武田氏が滅びたのも・・・ 北条氏が滅びたのも・・・

 そのせいではないかと考え、玉木山を完全に切り離し、郭では無く、「山」とした。

 以上、妄想好きのたわごとでした・・・


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 北からの、箕輪城の遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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Comment
Re: お邪魔します。
Butch様 御来訪ありがとうございます。

 歴史素人の妄想にコメントを頂き、かたじけない・・

 おっしゃる通り、原形をとどめないほどに、埋めたり、掘ったりしてのだと思われます。

 だので、真実の縄張りの変遷を証明できる人はだれ一人いない状況でしょう・・・

 せめて、推論を戦わせて、歴史ロマンにひたるしかないですね。
お邪魔します。
こんにちは、原箕輪城の考察興味深く拝見しました。
自分も初めて訪れた時から何か違和感を持っていました。
使用期間が長期に渡る城は難しい・・・と言うか 面倒くさくなり近年は陣城好きになってしまいました(笑)
箕輪城も長野、武田期 北条期も想像以上に現状とは異なった様相だったのでしょうね。
本丸周辺の堀底が10㍍下と言うのも現曲輪との比高からは異常なな深さになってしまいますよね~
掘ったり、埋めたり、かさ上げ、山崩し・・・その時々違った様相だったのでしょうね、何通りもの妄想箕輪城が出来て眠れなくなります(笑)

それでは失礼いたします。
門の復元が楽しみですね!
でいびす様 御来訪ありがとうございます。

 お久しぶりです。

 箕輪城は夏でも堪能できる数少ない城のひとつで、維持して
下さるスタッフの皆様に感謝、感謝です。

 今後、木橋と門が復元されるということなので、2年後には
もっといい感じになっていると思います。

 関東へ御出陣の際は、御所望の城を御案内させて頂きますの
で、御下知下さいませ。

 それとは別に、昨年と同じ時期に信濃で御同陣願いたいと、
思っておりますので、よろしくお願いいたします。
懐かしいです
ご無沙汰しております。
埼玉に住んでいた頃に発掘中の見学や城めぐりの一つとして
訪城しましたが、現在はここまで整備されているんですね。
整備されている方や今までよく残してくれていた先人の方に感謝ですね。
またいつか訪城して見たいものです。
詳しい記事ありがとうございました。
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