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箕輪城(5) ~ 長野業盛自刃

 箕輪城の第5話です。

 今度は城の北側に来ました。

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 玉木山を背に丸馬出を撮影しました。

 なんとなく半円形になっているのが伝わるでしょうか?

*1566年、謙信に属していた大田金山城が、武田・北条連合へ寝返り、箕輪城はついに東からも圧迫を受けることとなってしまいました。

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 丸馬出を今度は北西方向から・・・

*武田信玄は満を持して、箕輪城を包囲、同年9月29日、長野業盛が自刃して、箕輪城は落城しました。

 長野配下の豪族衆でその後信玄に仕えている者もいるので、長野業盛は自らの死と引き換えに、城兵の助命を乞い、信玄がそれを受け入れたものと思われます。


箕輪城
 玉木山は、玉木郭ではないのです。そこに何故か丸馬出が付属している・・・

 このことについては、最終話に持論を展開させたいと思います。

*箕輪城は武田による上野経営の拠点となり、真田幸隆、次いで内藤昌豊が城代に任じられました。

 この際、箕輪城は拡張工事を施されたと思われます。

 玉木山北部に付属する丸馬出しはこの時のものでしょう。


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 丸馬出から、玉木山の中腹まで登りました。

*信玄が亡くなり、勝頼の代、1575年に三河長篠の地で、織田・徳川連合軍と対峙した武田軍は歴史的な惨敗を喫し、箕輪城代内藤昌豊をはじめとする歴戦の勇将の多くが討ち死にしてしまいました。

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 丸馬出付近で浅めの堀が、東の方で急に深い堀となっています。

 個人的見解を申し上げると、手前が武田氏時代、奥が北条時代だと思います。

*箕輪城代には、保科家から内藤家へ養子に入っていた「内藤昌月」(ないとうまさあき)が据えられました。

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 堀底を東へ進むと、御前郭が見え、城の中心部へ簡単に進めそうですが・・・

 ここは攻城兵を誘い込み、様々な方向から射撃をしかけるキルゾーンなのではないかと思います。

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 藪で判りにくいのですが、玉木山と、通仲郭は堀で分断されています。

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 少々脈絡がないのですが、原っぱとなっている北郭の写真です。

 これから堀底を南方向へ進んで行きます。

 「箕輪城第6話・井伊直正入城」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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Comment
Re: 楽しみです
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。

> 箕輪城いいですよね。大堀切や馬出郭のあたりは
> 北条さんの手が入っている印象を受けますが
⇒私もそう思います。馬出郭は北条ですよね。

 夏でも、巨大な堀切を堪能できる有りがたい城ですよね。
 今でも堀の深さに圧倒されるのに・・・
 往時の堀底は更に10メートル下に有るというのですから
スゴイ・・・ 凄すぎですよね・・・
Re: お邪魔します
Butch様 御来訪ありがとうございます。

 長野氏については、江戸時代の小説による間違った情報が流布されて、結構、その情報をもとに書かれた解説書が出てしまったりしていますね。
 ささやかながら真実を伝え、広げていければと思っております。

> 武田期には当然 堀の規模・箇所も今より小さく曲輪間も地続きだった事も考えられますよね?
⇒同感です。そう思います。原形をとどめているのは玉木山と丸馬出しだけかもしれませんね。

> 今年 新府城を訪れた際、箕輪城となんとなく似ているな~と感じました、五遁様の絵図を見比べましたが・・・完成 未完成の差はありますが似ていますよね~?
⇒箕輪城の北側は、中央の堀へ攻城兵を引き込み、西と東から伏兵を出せるようになっていて、防御構想は、おっしゃる通り、駿府城の南側と似ていますね。

 昨日、東北より帰って参りました。天候が悪く、3城しか行けなかったのですが、盛岡城の縄張りは巧妙で堪能できました。レポートにするのが今から楽しみです。
楽しみです
ども、いつも楽しく読ませていただいております。
箕輪城いいですよね。大堀切や馬出郭のあたりは
北条さんの手が入っている印象を受けますが
原型は武田さんの時代にあったのでしょうね。
難解な縄張りですが、大規模な堀が見事なお城ですよねえ
お邪魔します
こんにちは、長野氏の動向とても勉強になりました(読書をしないもので)北条側だった事もあったのですね。

箕輪城を訪れた際 「丸馬出しと言われても??」と思っていました、五遁様の見解が楽しみです!
武田期には当然 堀の規模・箇所も今より小さく曲輪間も地続きだった事も考えられますよね?

今年 新府城を訪れた際、箕輪城となんとなく似ているな~と感じました、五遁様の絵図を見比べましたが・・・完成 未完成の差はありますが似ていますよね~?

今後も御教授していただきたい物件のレポートが目白押しです、御忙しいところ申し訳ありませんが 是非よろしくお願いいたします。
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