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箕輪城(4) ~ 武田信玄の攻勢

 箕輪城の第4話です。

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 二の丸を背に、馬出を撮影しました。

 馬出は現地表示では「郭馬出」となっています。

 馬出は馬出でも、郭ほどの大きさがある馬出であるという意味でしょう。

*1561年、武田信玄は第四次川中島合戦で謙信を退けると上野侵攻を本格化させます。

 信玄は大軍で鏑川流域の城を落としていき、ついには 「国峰城」 を奪取し、元城主の小幡憲重へ返却しています。

 また、 「磯部城」 を築城し長野氏の盟友安中氏へ圧力をかけました。

 その年、長野業正は病死し、三男の長野業盛が14歳の若さで跡を継ぎました。


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 アングルを引いてみました。

 馬出から二の丸への土橋が、微妙に上下し、微妙に屈曲しているところが渋いですね。

*信玄は、一方で真田幸隆をして、北上野吾妻川沿いに侵攻させ、1563年には 「岩下城」 を制圧。長野氏の盟友であった羽根尾氏、大戸氏は真田の配下となり、長野氏の領国は南北から挟み撃ちの状態となってしまいます。

箕輪城
 籠城する兵力が少ない時は、大堀切から南側は最初から放棄するつもりだったことでしょう。

*1564年になると、長野氏の西の盟友安中氏の、 「松井田城」 と安中城が信玄の手に落ちました。

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 馬出と二の丸の間の土橋の上から撮影した、東側の堀です。

*1565年5月、長野氏の盟友倉賀野氏の倉賀野城が落城。長野業盛は孤立してしまいました。

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 同じく土橋上から撮影した、西側の大堀切です。

 ここをへこませるために、どれだけの農民が動員され続けたのでしょうか?

 この大堀切は、大手の方まで延々と続いています。

 発掘調査時、実際の堀底は現在より更に6メートル下にあったということです。

*謙信は長野業盛を助けるため同年7月前橋城へ入り、西上野侵攻を企図しました。

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 二の丸の一部は駐車場となっています。

*運の悪いことに大雨により利根川が増水し、西へ進むことができませんでした。

 謙信はむなしく越後へ帰国し、長野業盛の厳しい状況は深まるばかりでした。


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 二の丸の北東方向から撮影した馬出です。

 次は、馬出は馬出でも、北側の丸馬出を紹介します。

 「箕輪城第5話・長野業盛自刃」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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