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高久城(2) ~ 三代討ち死に

 高久城の最終話です。

IMG_6105.jpg
 四郭と二郭の間の、堀跡は僅かな段差です。

*高久義貞の蜂起を受け、佐竹第16代義篤(よしあつ)は、鎮圧の兵を差し向けます。

IMG_6102.jpg
 三郭と四郭の間の堀跡は、何とも微妙です。

*高久義貞は、城を捨てて落ち延び、後に佐竹第16代義篤(よしあつ)へ降伏しました。

高久城
 部垂の乱をおこした宇留野氏の宇留野城と同一プランですね。

*佐竹第16代義篤(よしあつ)は、なんと、高久義篤を許しました。

 甘い、甘い、大甘なんでないの!とも思いますが・・

 高久義貞が降伏した時点で部垂の乱は終息していませんでしたので、

「乱に一味している分家の皆さん。降伏すればこの高久義篤さんのように許しますよ。だから、今のうちに降伏しましょう」というメッセージであったのかもしれません。


IMG_6103.jpg
 三郭と二郭です。まん中の道路を堀跡と解釈して、イメージ図を描きました。

 往時はまん中の道路が無く、左右のスペースが一体となった郭であった可能性もあると思います。

*許された高久義貞は、佐竹第16代義篤(よしあつ)へ感謝し、心服したということです。

IMG_6113.jpg
 二郭と本郭を隔てる堀です。藪ですが鋭さは伝わってきますね。

*その後、部垂の乱を鎮圧した佐竹第16代義篤(よしあつ)は奥州伊達家の家督争いに介入し、出陣することとなりました。

 佐竹義貞は、今こそ義篤(よしあつ)様の恩義に報いる時だ!と、自分だけではなく、父の高久義時、嫡男の宮寿丸を連れて出陣しました。

IMG_6115.jpg
 本郭は墓地となっていました。

*ところが周辺大名が入り乱れる乱戦の中、高久三代は全員討ち死にしてしまいました。

IMG_6114_2014041814134304a.jpg
 本郭から、堀越しに出郭を撮影しました。

 南側が低地となっているのが見て取れます。

*高久義貞には、宮寿丸以外にも子がいましたので、高久家は存続しました。

 佐竹氏の秋田添封に際し、高久氏の一部は秋田へ、もう一部は水戸に入った徳川家へ従ったということです。


IMG_6086.jpg
 南側の低地から、出郭を見上げました。西側の谷が防御に有効であることも見て取れますね。

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