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山入城(2) ~ 高塁壁馬出

 山入城の第2話です。

DSCF3019.jpg
 Pから、馬出の塁壁を見上げました。高いですね。

 この城の本気の防御はこの馬出からだと思います。

*山入第二代与義は、鎌倉公方のいる鎌倉に、佐竹宗家とは別に屋敷を構えることを許されていたということですから、山入与義もかなりの自負を持っていたことでしょう。

 山入与義は、関東管領の子が佐竹領へ入るのを阻止すべく、額田氏、長倉氏と語らって挙兵しますが、一旦は矛を収めました。1407年のこととされています。


DSCF3020.jpg
 馬出の塁壁は急なので登ることができません。そこで攻城兵は通路を探します。

 あった! この通路は狭く、攻城兵は少人数でしか進めません。

 しかも、常に頭上からの攻撃にさらされます。

*1416年、上杉禅秀の乱が勃発しました。前関東管領上杉禅秀と鎌倉公方との争いです。

 山入与義は上杉禅秀につき、佐竹宗家は鎌倉公方につきました。

 乱はすぐに鎮圧されました。

 ここからが複雑です。京都の室町幕府は、乱の鎮圧により鎌倉公方足利持氏の権力が絶対的なものとなることを恐れ、乱に加担した山入与義らを許し、京都の幕府が直接命令できる「京都扶持衆」として、存続させたのでした。


山入城
 土橋を描き込むため、馬出と「い」はかなり離れて描いてありますが、実際はもう少し近接しています。

*ここに・・・

 (京都室町幕府がバックにつく)山入与義 VS 佐竹宗家(鎌倉公方がバックにつく)

  という、対立の図式が出来上がってしまったのでした。

  後ろ盾を得た山入与義は乱の翌年に挙兵し、佐竹宗家への反逆の烽火を挙げました。

  佐竹宗家は鎮圧の軍を向けますが、はかばかしい結果を得ることはできませんでした。


DSCF3022.jpg
 通路は少しづつ狭くなり、右へ折れ曲がります。攻城兵にとっては先が見通せないのがつらいですね。

*1422年、鎌倉公方足利持氏は、自ら山入与義の鎌倉屋敷を攻め、これを自害せしめました。

 足利持氏は、自ら兵を率いて常陸へ入り、佐竹宗家とともに山入第三代祐義を攻めますが、山入祐義には大掾氏が味方したため、制圧することはできませんでした。


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 折れ曲がった先は、「う」と「馬出」の挟撃空間を登っていくという試練が待ち受けています。

*その後も両者の対立は延々と続きますが、やがて、応仁の乱の勃発により、京都室町幕府が無力化し、北条氏の台頭により公方家が無力化するに及んで、この対立も新たな段階を迎えることとなります。

DSCF3025.jpg
 土橋を背に、馬出を撮影しました。

 「山入城第3話・土橋と屈曲通路」へ続く・・・

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