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山方城(5) ~ 越後出陣

 山方城の第5話です。

DSCF3088.jpg
 三郭、挟撃通路、外郭のラインは北の方に行くと破壊されているようです。

 往時のラインを想定して白線で示してみました。

*現地配布資料によりますと、山方第四代国利も佐竹氏の名代として、兵を率い、国外へ出兵しました。

 1507年、越後守護代の長尾為景(上杉謙信のお父さん)が、越後守護上杉房能を攻め殺すという下剋上が起こったのです。


山方城
 現地資料館掲載古図面を参考に破壊部分を復元して描きました。

*殺された上杉房能は、関東管領上杉顕定の弟でした。

 上杉顕定は激怒し、関東の諸氏に長尾為景討伐の為に兵を出すよう要請しました。

 その頃、上杉家と古河公方は和睦していましたので、上杉の血をひく佐竹氏と、山方氏が兵を出すことには何の支障もなかったと思われます。


DSCF3090.jpg
 三郭と二郭の間の堀は道路となっていました。良くあるパターンのやつですね。

 堀の南半分ですね。

*1509年、上杉顕定と山方国利は越後へ攻め入りました。

 関東からの大軍に恐れをなした、長尾為景は国外へ逃亡しました。

 上杉顕定は、長尾為景に与した豪族へ過酷な処置を行った為、越後には怨嗟の声が上がりました。


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 堀の北半分です。

*同時期の関東では、北条早雲が上杉の領地に攻め入り、長尾景春が北上野で挙兵して、越後と関東の交通を妨げました。

 1510年、長尾為景が越後に帰国すると、越後国衆は雪崩を打って長尾為景の傘下へと復帰しました。


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 二郭の南側には、帯郭状の空間が付属しています。

*不利を悟った上杉顕定は撤退を開始しましたが、長森原(現六日町付近)で捕捉されてしまいました。

 周囲が全て敵という状態の中、山方国利と佐竹勢は全滅、上杉顕定は自刃して果てたということです。


DSCF3092.jpg
 東へ進んでいくと、土塁が残存しています。

 往時は全面的に土塁があったと推察し、イメージ図に描きました。

*山方家は、国利の長男定利が継ぎ、第五代当主となりました。

DSCF3093.jpg
 二郭と本郭を隔てる堀です。

 「山方城第6話・悪鬼の謀略」へ続く・・・

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