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瓜連城(1) ~ 南朝の牙城

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成26年3月8日、お城仲間のMさんと、瓜連(うりづら)城に行って参りました。

瓜連城アク
 茨城県那珂市瓜連、水郡線瓜連駅北方約500メートル、常福寺の境内とその周辺が城域となっています。

IMG_4163.jpg
 常福寺の山門です。

*平安時代、佐竹氏は常陸全域に勢力を扶植していましたが、鎌倉幕府成立前夜、源頼朝に逆らった為、この地を含め大半の所領を没収され、久慈川流域と、現常陸大田付近に逼塞することとなりました。

IMG_4164.jpg
 山門の左側の石柱をアップすると、史跡瓜連城址と記されています。

*1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞が挙兵しました。佐竹氏もこれに呼応し鎌倉攻めに従軍、鎌倉は陥落し、鎌倉幕府は滅亡しました。

瓜連城
 藪レンジャーの皆さんの図面を参考に、イメージ図を作成しました。

 河岸段丘のヘリを活用しています。

*後醍醐天皇による建武の新政が開始されました。

 新政の裁定により、久慈川上流の現大子町周辺は結城氏へ、那珂川中流の瓜連周辺は楠氏へ与えられました。
 
 久慈川と那珂川を流通と経済の基幹とする佐竹氏にとっては、納得しがたい裁定でした。


IMG_4165.jpg
 東堀です。

*1335年、鎌倉幕府の残党が中先代の乱を引き起こし、鎌倉を占拠しました。

 足利尊氏は、京都より鎌倉に下り、乱を平定しました。

 後醍醐天皇は、足利尊氏に京都へ戻るよう指示しましたが、足利尊氏はこれを無視し、関東の武士へ独自の裁定で所領をあてがうなど、自立の道を歩みました。


IMG_4167.jpg
 保育園の前の土塁です。

*やがて足利尊氏は、新田義貞を攻め下し、京都を占拠し、独自に天皇を擁立しました。

 これが北朝となり、後醍醐天皇は南朝と呼ばれるようになりました。

 南北朝時代の始まりです。これ以降約60年間にわたり、全国各地で北朝派と南朝派の武士たちが血で血を洗う、熾烈な抗争を繰り広げることとなります。


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 郭内から見た西土塁です。

*北関東における南朝派は、結城氏、新田氏、宇都宮氏などで一大勢力を誇っていました。

 そのような中、佐竹氏は周囲を南朝派に囲まれながらも、北朝派として気を吐いていました。


IMG_4171.jpg
 西土塁と北土塁です。北の方が河岸段丘となっており、敵が攻めにくいので土塁が低くなっています。

*ここ瓜連城は南朝派の、「対佐竹の牙城」として、位置づけられることとなりました。


IMG_4172.jpg
 北土塁です。

 「瓜連城第2話・楠正家入城」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「茨城の城」
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Comment
Re: すべてがでかい
でいびす様 御来訪ありがとうございます。

 城の地域慣行の違いは甚だしいですね・・・

 信州でも伊那ではでかい郭のでかい城が多いのに、諏訪まで行くと狭い郭の城ばかり・

 関東でも茨城ではでかい郭のでかい城ばかりなのに、群馬に行くと狭い城が多数派です。

 北茨城と伊那の共通点は河岸段丘を利用した城が圧倒的に多い。

 郭も全体もでかい。しかも、城の密集度が高い。なのに、技巧性に寂しさがあるという
点ですね。

 歴史的な共通点は、内部抗争はあるものの、外部からの侵略が長期間なかったという点
ですね。

 さて、でいびすさん。また、秋にご一緒させてください。行き先はおまかせで・・・

 今後のレポートを楽しみにさせて頂きます。
すべてがでかい
ご無沙汰しております。
毎回楽しく拝見させていただいております。
それにしても茨城方面の城は、土塁・堀共にでかいですね~
見ごたえ十分です。
平城が多いのでこのような発達のし方をしたのでしょうね。
これからも楽しみにしています。
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