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図解滝山城(21) ~ 続本丸北西郭郡

 滝山城の第21話です。

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 「E」の郭に入りました。この郭は「C」と打って変わって、小規模ながら大変複雑な構造をしています。

*さて、やがて北条氏照は八王子城を築き、本拠を滝山城から、八王子城へ移します。

 何故でしょうか?


滝山城本丸北西郭群

 藪で見えにくい部分もあり自信がありません。雰囲気だけ感じ取っていただければ幸いです。

*滝山城の「滝」の字が「水が落ちる」ことをあらわしている為、縁起が悪いからだという話があります。

 それなら城の呼び名を変えれば事足ります。

 深志城⇒松本城、稲葉山城⇒岐阜城など例はいくらでもあります。


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 「E」の郭の北西方向の土塁が妙にクリアです。

*上杉謙信が亡くなり、北からの脅威が減った為、西からの脅威に備える為、八王子城を築いたとする説もあります。謙信の死後、武田勝頼とは手切れになっていますので、甲斐国境に近い場所に甲州勢を防ぐ拠点を整える必要があったということですね。

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 「E」から見上げた、「D」と「出丸」です。

*北条氏は、武田と対抗するために、織田信長の御機嫌を伺いました。家臣の間宮氏を安土城へ派遣し、貢物を届けさせています。間宮氏は北条氏築城部門の幹部であり、間宮氏はその後八王子城の普請にも携わっています。

 つまり、織田信長が山城である安土城を本拠としていること、鉄砲大量導入時代には山城が防衛上有効であることを学んだので、岡城である滝山城の防御力に疑問を感じ、山城である八王子城の構築を急いだとする説もあります。


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 「D」に入りました。楕円形をしています。20名ほど籠れるでしょうか?

*中田正光著「戦国の城は民衆の危機を救った」によりますと、八王子築城の記録が文書で初めて確認できるのが天正10年(1582年)であるということです。武田家が滅亡し、織田信長が本能寺の変に倒れた年ですね。

 その年には、甲斐において徳川と北条が対陣していますから、やはり、甲斐との国境に備える必要に迫られたことでしょう。


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 「D」から見上げた「出丸」の塁壁です。

*その後、北条と徳川の和睦が成立したため、北条氏は下野への侵攻を強化しました。

 圧迫された下野の宇都宮氏は、平城である宇都宮城を捨て、巨大山城多気城を築いて抵抗しました。

 北条氏は、この巨大山城を多勢で囲みますが攻めあぐねてしまいます。


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 「出丸」にたどり着きつづあります。このあたりの構造は二の丸周辺と比べて、かなり古いように感じます。

*北条氏は、鉄砲大量導入期に山城が防御上有効であることを身をもって思い知ることになりました。

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 「出丸」に入りました。40名ほど籠れそうな広さがあります。

*1586年には、豊臣秀吉は徳川家康を屈服させ、北条に上洛を促します。

 八王子城の築城は急がされたことでしょう。


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 「出丸」の先には、深い堀を隔てて「本丸」が望めます。

 「滝山城第22話・本丸」へ続く・・・

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