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超図解鉢形城(14) ~ 笹郭から御殿下郭

 鉢形城の第14話です。

鉢形全体
 この回は、「本郭」の東側の「笹郭」からのレポートとなります。

*豊臣秀吉は、織田信雄と徳川家康を屈服させ、北条家は孤立しました。

 豊臣秀吉は、北条家に服従を迫りました。


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 県道30号、写真手前、深沢川にかかる橋の北西側(写真奥)が「笹郭」です。

*北条家は服従の意を示しましたが・・・

 当主の氏直ではなく、親族衆の氏規を上洛させたり、降伏する身でありながら、領土裁定の要求を持ち出すなど、その態度は煮え切らないものでした。



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 鉢形城址の石碑がありますね。

 この分岐を右に行くと、荒川を渡って寄居へ、左へ行くと御殿下郭へ至ります。

*豊臣政権内には、「懐柔によって天下を治める派」と「抵抗者を攻め滅ぼすことによって天下を治める派」が、分立していました。

 1589年6月、伊達政宗が、芦名氏を滅ぼすという事件が発生しました。豊臣政権は芦名氏を支援していました。

 この事件により、「懐柔派」は手ぬるいとされ、権力を失いました。

 そして「攻め滅ぼす派」が主流となりました。


IMG_1520.jpg
 石碑の背後には芝生広場があり、想定復元立体模型が設置されています。

 本レポートのイメージ図はすべて、この立体模型から起こしています。それ故、現状と異なる部分があることをご了承ください。

 写真右奥の高まりが「御殿東」、芝生広場は「D」です。

*同年7月秀吉は 「吾妻領は真田のまま、沼田領の3分の1、名胡桃城は真田のまま。沼田領の3分の2、沼田城は北条領とする。」という裁定を下しました。

 北条氏は、吾妻領の全部、沼田領の全部を欲していたのに、実際に得ることが出来たのは希望の半分にも満たないものでした。

 1589年10月、北条氏邦配下の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とすという事件が発生しました。


鉢形笹郭
 アップのイメージ図です。

 馬出方面からの「小口」の遺構は、破壊されたのか発見できませんでした。

*秀吉はこれに激怒すると、配下の大名へ北条攻めの命令を下しました。

 翌1590年、20万ともいわれる大軍が関東に侵攻しました。

 北条氏邦は鉢形城に籠城しました。


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 道路の南側には、「B」の塁壁と推察される段差が残っていました。

*北条氏邦というと猪突猛進で思慮不足の武将であるというイメージのエピソードが残されていますが、本当にそうだったのでしょうか?

 彼の配下が名胡桃城事件を起こしたから、主人も思慮不足に違いないといった先入観から江戸時代に捏造されたエピソードもあるのではないでしょうか。


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 「A」から「御殿下郭」にかけては、道路が貫通し、破壊されています。

 道路両脇の石積みは、土塁の名残りでしょうか?

*三増峠での敗戦を経験して以降の彼の戦ぶりをみると・・・

(1)敵勢よりも必ず多い軍勢で対陣し、相手に圧迫を加える。
(2)大敗するような無理な攻め方はしない。
(3)有利な展開になれば屈服させるか、和睦する。
(4)不利であれば撤退する。

 ・・・といった4原則に基づいて行動しているように見られ、猪突猛進どころか、有利と不利の判断が出来る、堅実な武将であったと私は感じています。


IMG_1534.jpg
 御殿下郭へ入りました。

 「鉢形城第15話・御殿郭」

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