HOME   »  中世城郭  »  超図解鉢形城(13) ~ 渡河食違土塁

超図解鉢形城(13) ~ 渡河食違土塁

 鉢形城の13話です。

鉢形全体
 このレポートでは、図中央、「外郭西」と「外郭東」の中間地点あたりから、深沢川を渡河し、「二郭」と「本郭」の接点へと至るルートの説明です。

IMG_1472_201309271028102f9.jpg
 右側の高くなっている部分が「う」で、左側の家がある平場が「え」です。

*1577年、上杉謙信が亡くなると、家督争いの「御館の乱」が勃発しました。

 北条家は、北条から上杉へ養子に入った景虎を支援しましたが、景虎は1579年自刃し、越後には上杉景勝による反北条政権が樹立しました。


鉢形二郭
 渡河して「え」に至った攻城兵は、「う」と「い」の2方向からの攻撃にさらされます。

*上杉景勝は、織田信長の攻勢にさらされていました。

 反北条の景勝を共通の敵とする織田信長と組んでおけば、悪いことにはならないと考えた北条家は、織田信長へ鷹を送り、また、婚姻関係を持ちかけました。


IMG_1473_201309271034238dd.jpg
 二本の土塁が「食い違い」になっていて、進入路が屈曲しているが見て取れますでしょうか?

 「い」へ至る道です。

*1582年、織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼしました。

 北条家も軍勢を派遣しました。武田家滅亡後の厚遇を期待してのことでした。

 しかし、当主氏直が信長への拝謁へ赴かなかったからでしょうか、信長は上野を占領すると滝川一益を配置し、関東を差配させることといたしました。

 北条家のメンツは丸つぶれでした。


IMG_1474_2013092710371761c.jpg
 「い」の小口です。往時はここに門が設置されていたと推察いたします。

*僅か3ヶ月後には織田信長が本能寺にて急死しました。

 北条氏邦は鉢形城を出陣し、他の北条勢とともに滝川一益を撃破し、関東から駆逐します。

 「神流川の戦い」と呼ばれています。


IMG_1476.jpg
 「い」の内部から、南、深沢川側の土塁を撮影しました。大きな土塁です。

*北条勢はその後、信濃、甲斐へと兵を進め、徳川家康と対陣しますが、両軍は和睦。

 徳川という後ろ盾を得た北条氏は念願の関東制覇へと乗り出していきます。

 しかし、一方、北条五代の宿敵上杉家は、その頃、より巨大な後ろ盾を得ていたのでした。


r1477

 「い」から「二郭」の塁壁を見上げました。

 「い」は、半枡形的空間だったと推察いたします。

*織田信長亡き後、上方で覇を唱えた豊臣秀吉は、同僚の柴田勝家を挟撃すべく、上杉景勝を傘下に引き入れました。

 勝家を滅ぼすと、秀吉は景勝を「東国取次役」に任じ、反北条の真田氏や、佐竹氏への支援を開始しました。

 北条家にとっては、宿敵上杉氏が「東国取次役」として上役となり、その命に従わなければならぬ事態は耐えがたいものであったことでしょう。


IMG_1480_20130927105143eb8.jpg
 埋められた堀であろう部分へ登って行きます。

*やがて上方で小牧長久手の戦いが発生しました。

 一般的には、秀吉VS徳川&織田信雄の局地戦であると思われています。しかし、この勢力争いは関東にも及んでいました。同時期に連動して発生した「沼尻の戦い」です。

 「沼尻の戦い」は、北条配下であった、由良氏、長尾氏が佐竹陣営に寝返り、北条がこれを咎めたものですが、寝返りの背後には上杉景勝があり、実際に兵を動かして、北条の動きを牽制しています。

 つまり・・・

 秀吉、景勝、真田、佐竹 VS 織田信雄、徳川家康、北条氏直 といった、大規模な勢力対立だったのです。


IMG_1481_20130927105409de2.jpg
 登り切りました。 このあたりは破壊が著しいですね。

 奥に「御殿西」郭がそびえたっています。

 「鉢形城第14話・笹郭」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「埼玉の城」
スポンサーサイト
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

武蔵の五遁

Author:武蔵の五遁
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード