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樺沢城(2) ~ 2人の養子

 樺沢城の第2話です。

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 三郭から「堀切2」へ下って行きます。現地表示では空掘となっていますね。

*上杉謙信は、関東管領山内上杉憲政から山内上杉家を譲り受け、関東管領として関東を差配すべく、関東へ出陣し、上杉景勝はこれに従軍しました。

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 先ほどの下る道を、「二郭」から撮影しました。お城仲間のMさんがいらっしゃるのは「三郭上段」です。

*その頃、関東を支配していた北条家は、武田家、今川家と3国同盟を結び、謙信に対抗しました。

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 「堀切2」の堀底に到達しました。

*1568年、武田信玄は今川領へ侵攻しました。北条家はこれを三国同盟違反と咎め立て、武田と断交し、上杉謙信へ和を請いました。

樺沢表
 地形に沿って削平地を設け、堀切で分断した、越後上杉系によくみられる普請です。

*上杉謙信は、人質を要求しました。

 北条家は、北条氏康の七男北条三郎を越後へ引き渡しました。


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 堀底から「二郭」を見上げました。

*上杉謙信は、北条三郎を、自らの姪と結婚させ、上杉親族衆としたうえで、自らの養子とし、上杉景虎を名乗らせました。

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 「二郭」へはいりつつあります。

*上杉謙信の養子は、これで2人となりました。

 上田長尾の子、上杉景勝にとっては、長年敵対してきた北条の子が越後の跡取りとなることは、許しがたいことでした。

 上田長尾と長年対立してきた古志長尾家や府中長尾家には、「上田長尾に家督を取られるくらいなら、いっそ北条の方がましだ。」と考える者もおりました。


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 「二郭」は四段段構成になっており、これは四段目の写真です。

*北条家では、人質を送ったのだから、武田を牽制する軍を催してくれと求めました。謙信は同盟の証として、北条家の「同陣」を求めました。

 北条家はこれに応じませんでした。

 謙信は機嫌を損じ、武田攻めをしませんでした。


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 「二郭」三段目の写真。

*北条は謙信の条約不履行を咎め、謙信と断交し、武田信玄との同盟を復活さました。

 北条家は人質に送ったばかりの、上杉景虎を無情にも見捨てたのでした。

 謙信は、景虎を殺したり、北条へ送り返すことはせず、養子として厚く遇しました。

 景勝と景虎。立場の全く異なる二人の養子の存在は上杉家に大きな混乱をもたらすことになるのでした。


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 「二郭」三段目から、二段目、一段目を見上げた写真です。

 「樺沢城第3話・御館の乱勃発」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「新潟の城」
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Comment
Re: ホッとしました
らんまる様 御来訪ありがとうございます。

 樺沢城は好きな城でしたので、入山再開は私も嬉しい限りです。

 看板の多さは相変わらず健在でしたよ!

 北条の軍勢は冬が来るのが怖かったでしょうね。

 北条が本気で景虎さんを支援して、上杉家を乗っ取り、そのうえで
織田家に和睦を持ちかけていれば、史実の様な北条家滅亡はなかった
のかもしれませんね。
ホッとしました
この城を訪れたのは2009年8月。当時は天地人のご当地ブームでしたので、城跡の異様なのぼり旗の多さと立て看板の多さには閉口しました。相変わらず立て看板は多いようで安心しました(笑)
本郭に立ち、御館の乱で救援に赴いた北条さんちの兵士の心境を思ってました。
雪とは無縁の温かき故郷を離れ、後詰めも当てに出来ない雪深きこの地で彼らは何を支えに過ごしたのでしょうか。

「生きて故郷に帰る事」

甲相同盟の破綻と甲越同盟の締結。
狭間で犠牲になったのは景虎だけではなかったんですね。
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