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三ケ田館(2) ~ 九戸政実着陣

 三ケ田館の最終話です。

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 「本郭」と「二郭」の間の堀底道を登ってきましたが、分岐点に到達しました。

三ケ田
 上の写真は、この図ですと多くの郭の中心部です。

 多くの堀が交差する地点でもあります。その地点には周囲の堀より更に掘り込んだ「堀中堀」があります。

 また、この地方の城は、台地のヘリに郭を配置し、その中心部や、背後の高地には普請しないで放置するパターンが多いです。

 地形図から高所を「物見」と記してみました。見ていませんが、多分、普請されていないと思います。

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 「堀中堀」の西側部分です。

*さて、成田氏の末裔たちが治めていた鹿角郡は、戦国時代には南部氏の支配を受けることとなりました。


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 「堀中堀」の東側部分です。

*成田の末裔たちは南部の支配を嫌い、秋田安東氏を頼りました。1567年、秋田安東愛季率いる6000の兵が鹿角郡を制圧しました。

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 「堀中堀」の南側部分です。奥は「三郭」の塁壁になっています。

 「堀底堀」は、攻城兵の堀底間の移動を妨げる意図で普請されたのではないでしょうか。

*翌1568年、南部氏は鹿角郡奪回の兵を挙げました。

DSCF2112.jpg
 「四郭」には、古四王神社が建立されています。

*三戸南部晴政は鹿角郡北方の大湯に布陣、九戸南部政実は鹿角郡南方の三ケ田館に布陣しました。

 南部軍が南北から挟撃する体制をとったため、秋田軍は支え切れず撤退に追い込まれました。

 九戸政実は、後に九戸の乱をおこす方ですね。


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 右が「三郭」、中央が「三郭」と「物見」の間の堀です。

*1568年といえば、武田信玄と上杉謙信が争っているすきに、織田信長がちゃっかり上洛を果たした年ですね。

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 左が「三郭」、中央が「三郭」と「本郭」の間の堀です。

*九戸政実がこの城に入った時に率いてきた軍勢は数千であったと思われます。

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 「本郭」のへりに立ち、「三郭」方向を見下ろしました。

*武田が丸馬出しを開発し、北条が比高二重土塁と屈曲侵入路をとりいれていた時代に、北辺の鹿角郡ではだんご虫郭がゴチャッと配置されたこの様な城が実戦に使用されていた・・・

 距離の隔絶は、文化の隔絶でもあるのですね・・・

DSCF2123.jpg
 「本郭」のへりまではたどり着けましたが。内部へは侵入できませんでした。

*さて、成田氏分流安保系三ケ田氏がその後どうなったかについて調べてみました。

 鹿角郡から、米代川を西へ下ったところにある鷹巣(現北秋田市)の「鷹巣町史」の記述を要約して下に記します。

 天正年間、南部鹿角より、三日田兵部という者が当地に来て狐台に居を占め、この地の開発に着手した。

 開発地は「兵部羽立」と称された。


 新天地でたくましく生きておられたのですね・・・

DSCF2098.jpg
 北東方向からの遠景でお別れです。

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