FC2ブログ
HOME   »  中世城郭  »  護応土城(6) ~ 伊達勢侵攻

護応土城(6) ~ 伊達勢侵攻

 護応土城の最終話です。

IMG_1037_20130802101840bed.jpg
 「前郭」から「馬出し」の塁壁を見上げました。通路があります。

IMG_1038_20130802102014eff.jpg
 「馬出し」から「南郭」を見下ろしました。

護応南
 南西方向から見たイメージ図です。

IMG_1039_20130802102128ba5.jpg
 木でふさがれていますが「三郭」の小口です。

IMG_1043_20130802102329a75.jpg
 「二郭」の小口です。

IMG_1052_201308021027354cf.jpg
 「二郭」から見た「本郭」の塁壁です。

IMG_1054_201308021029080f9.jpg
 「本郭」と「K」の間の小口です。

IMG_1055_20130802103041924.jpg
 「K」の場所から「本郭」を見上げました。

IMG_1058_20130802103206161.jpg
 「本郭」です。3年前に見たときは、この曖昧さが気になり、「城ではないのでは?」と思ってしまいました。

IMG_1059.jpg
 今は「本丸」の表示があるので、表示を信じることとします。

*今川氏は、配下の伊達景宗に南朝方掃討を命じました。

 伊達景宗(だてかげむね)は、1351年中に平野部を万全の体制とすると、翌1352年、藁科川沿いに北上しました。

 2月11日、萩和田城落城。
 2月13日、護応土城落城。
 2月25日、徳山城落城。

 駿河における南朝方の策動はここに終了したのでした。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「静岡の城」
スポンサーサイト



Comment
Re: その後は使われずに廃城?
らんまる様 御来訪ありがとうございます。

 そして、お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。

 女房の実家に行っておりました。

 一人暮らしの女房の母親が入院しており、実家は誰もいないので、片付けなどをして過ごしました。

 さて、護応土城はその後は使われずに廃城となったようです。戦国期の記録に名前は出てきません。

 伊達勢が攻めよせたであろう方向の尾根には防御構造が見当たらないので、戦国期の攻防には耐えることが出来ないと思われます。

 古い城には、「敵はこっちから、こっちからだけ攻めてくる」と決めてかかっているものが多いですね。埴原城にも似たような遺構があるのですね。行かねば・・・

 ところで、幻の城を踏査されたようですね。命を大切にしないといけませんよ!(笑)
その後は使われずに廃城?
お疲れ様です。
連日猛暑の中を相変わらず踏査されているようですが、水分補給はコマメにお願いします(笑)

ジグザグの畝傍状の堀は埴原城の主郭背後の尾根の塹壕掘に良く似ていますね。恐らくこの城に使われたのが初期型で、埴原城は派生形かもしれませんネ。
入り口(攻め手正面)に技巧を凝らしたのは良いのですが、敵が想定外の攻め口から来たらどうするつもりだったんでしょうか?
まあ、時代が南北朝ですから、お互いが名乗りを上げてから闘う「個別戦闘」の時代なので、城攻めも「名もなき集団」による無慈悲な攻撃という発想はまだ浸透していなかったと思われます。
この城も落城というよりは自落に近かったのでしょうか?
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

武蔵の五遁

Author:武蔵の五遁
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード