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高崎根小屋城(1) ~ 相越和議の動揺

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成25年7月6日、お城仲間のMさんと根小屋城に行ってきました。

山名根アク
 群馬県高崎市寺尾町にあります。

 10数年前に訪れた際は、西側の林道に車を停め、荒れた山道を登ってたどり着きました。今回、同じルートを使用しようと思いましたが、林道の状態が悪化しており、途中で侵入を断念しました。

 最近は、「山上碑」から、「山名城」を経て、尾根を縦走してたどり着くルート以外無くなってしまっているようです。

 「山上碑」へのアクセスは、 「山名城」 をご参照ください。

107_20130716163455.jpg
 山名城から根小屋城への道は、このように整備され快適です。

*戦国時代、武田信玄は上野へ侵攻し、この地を勢力下に置いていました。そして伊豆、相模、武蔵を支配する北条氏と連携し、上杉謙信の勢力を関東から締め出そうとしていました。

 武田、北条、今川の三国同盟に基づく行為でした。

 1568年、武田信玄は駿河の今川領へ侵攻しました。

 北条氏は、信玄の三国同盟違反を咎め、信玄と敵対し、上杉謙信と手を組むこととしました。

108_20130716163627.jpg
 途中で、南からの根小屋城が遠望できます。

 北条と上杉が組むと、この地は北条・上杉連合の支配地内に突出した形となります。

 在地衆は激しく動揺し、中には北条・上杉連合に内通する者まで現れました。

 そこで信玄は在地衆の引き締めを図り、強力な防御拠点を構築することとしました。

 その時築城されたのは根小屋城であると推察されています。

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 武田信玄が軍資金を埋めたという伝説があるそうです。

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 搦手の表示です。いよいよ城域に入ってきました。

*高崎、倉賀野、前橋を見下ろす丘陵地帯に、武田氏は北西から南東にかけて、茶臼山城、根小屋城、山名城をかまえていました。

 たとえば北条氏がこれを攻略しようとした場合、どのような策があるでしょうか?

 主力である根小屋城の北側の平地に布陣し、根小屋城を攻めようとすると、茶臼山城と山名城から伏兵が出て、挟撃される恐れがありますので、良策ではありません。

 先に茶臼山城を奪取しても、根小屋城とは尾根続きではありませんので、次への足がかりになりにくいのです。

 最上の策は、山名城を奪取し、尾根沿いに根小屋城を攻める策でしょう。その場合の攻め口がこの搦手口です。

 武田方もそのことを予想して、搦手口に最強の防御構造を用意しました。

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 まずは、平凡ながら幅の広い堀切でワンクッション。

 「根小屋城第2話・四小口枡形」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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Comment
Re: 根小屋城へのアクセス
haku様 御来訪ありがとうございます。

 稚拙なブログをご覧いただき有り難く、御礼申し上げます。

 根小屋城は一般的にはそれほど知られていない城ではありますが、武田の手による技法が詰め込まれていますので、こうして、多くのコメントを頂くこととなりました。

 根小屋城アクセス路への情報を頂きありがとうございます。

 確認させて頂きました。

 コメントを御覧になった皆様が参考にしてくださるといいですね。

 さて、発達障害学会から帰還し、東北遠征のイメージ図を作成しています。

 秋田県鹿角地方は、凄まじいほどの城館濃密集結地帯です。

 しかも、堀幅が20メートルは当たり前、50メートル、100メートルの城もあります。

 九戸の乱後、「館崩し」という名の城郭破壊が行われましたので、小口や土塁や枡形は残存していないのですが、堀は往時の幅をとどめていると思われ、とにかく、全国の城郭マニアに「なんじゃこりゃ?」という堀を視認して頂きたい! 

 かなり酔いがまわっているようです。かたじけなく・・・

 おやすみなさい・・・
根小屋城へのアクセス
始めてコメントをさせていただきます。hakuと申します。
いつも(たまにまとめて?)楽しくブログを拝見させていただいております。

あくまで2011年の状況ですが、根小屋城への登り口は北側に一箇所だけ残されていました。
すぐ傍の民家の住人に教えていただいたのですが、その他のルートは林道も含めて崩れて通行不可になってしまったとのこと。

このルートから登ると、鳥瞰図でいうH付近の竪堀から主要部にアクセスすることが出来ます。あくまで希望的憶測ですが、このルートは地元の方が何とか保持していただけてるんじゃないかなと。

↓以下、googlemapでの登り口目安です。直前にちょっとした広場があり、車一台ならそこに駐車しても文句は言われないと思います。いつも楽しませていただいているので、参考になればと思い、コメントさせていただきました。それでは失礼します。
https://maps.google.co.jp/maps?q=36.28686,139.022123&hl=ja&ll=36.286228,139.024526&spn=0.007048,0.007854&num=1&t=h&brcurrent=3,0x601e9322f086f219:0xdfd39b6f4c07b613,0,0x601e9324d8de5ab3:0x9ed55fc03fec6dca&z=17
過少評価
丸馬出様 ご来訪有り難うございます。

 武田の滅亡の理由には、同感です。
 早く美濃を取っておけば良かったと思うのは、その後の歴史を知っているからであって、当時は対越後が優先課題だったのでしょうね。
 それと勝頼さんは、大局観に欠けていたように感じますね。
おもしろいですよね
武田氏のあっけない滅亡は
色々議論がありますよね。
私は真田&武田のファンからスタートしていますので
武田びいきなのですが、結果論から推測すると
①信玄さんが、信長さんと家康さんの実力を過小評価
②それに由来する外交の失敗
③信長さん、家康さんの能力が勝頼さんより上だった
という点にあるのではないかとおもっています。
なんといっても、勝頼さんのお嫁さんは信長さんからもらっていますから、武田家-織田家の友好関係を継続できていたら歴史は変わっていた気がしています。
とはいえ、初期の信長さんと家康さんの実力を正確に判断できた人は少なかったでしょうね。


Re: 真田幸隆の真田郷復帰時期
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 森田善明氏は、三方ヶ原合戦を、三増峠合戦と同じような陽動作戦ではなかったかと主張されています。
 信玄公は美濃侵攻を考えていたが、敵の兵力を遠江方面へ分散させる為、行った作戦である。
 東美濃の土豪は信玄の侵攻時には馳せ参じると内応の意を示していたというものです。

 さて、真田幸隆の真田郷復帰時期ですが・・
 上田原合戦と砥石合戦の間の時期に、寺尾氏が武田に内通し、それがばれて、村上に攻められ、真田幸隆が援軍にかけつけるといいった事態が生じています。
 寺尾氏の領地から地蔵峠を越えた南にある真田郷に真田幸隆がいたからこそ、寺尾氏は内通したのでしょうし、真田郷に真田幸隆がいたからこそ、真田幸隆は寺尾氏のもとへ援軍に駆け付けることが出来たのだと推察します。
 この時点で、地蔵峠への道の西側にある砥石城は村上が押さえていました。
 地蔵峠への道の東側にある、尾引城の横尾氏が上田原合戦で没落し同地を去っていますので、その時点で真田幸隆が真田郷を押さえ、尾引城を押さえていたと推察します。
 砥石城が村上で、尾引城が村上であるのなら、真田幸隆は寺尾氏への援軍に向かえないのですから。
 以上、歴史素人の空想でした。
真田幸隆の真田郷復帰時期
やはり、歴史にタラレバはないですね・・・。

「信玄公は何故天下がとれなかったか?」

信玄晩年は大国同士の戦いで、小豪族を滅ぼすとは違いますね。早死にもありますが、やはり歴史的事実で天下は取れなかったです。あと5年長生きしても、全国統一までは無理だったでしょう・・・。徳川滅亡と上杉領国化は出来たかも・・・。

真田信之と同じ91歳まで生きたら、信玄公の全国制覇は分からなかったですが(笑)

真田幸隆の真田郷復帰時期のコメントお願い致します。
「土橋氏の武田信玄を訪ねて」をかばんに入れて、S63GWに砥石城を登った時も、真田郷が砥石城の目の前で「なんかおかしいな?」と思いました。

平山優氏の全ての本を購入し、平山優氏の古文書アプローチ法でなるほどと思いました。ですから今は、私は砥石城落城後に真田幸隆は真田郷に復帰したと考えています。古文書が読める学者(大学教授)にはかなわないかな(笑)

私は大学時代歴史研究会で、古文書研究会を尊敬していました(笑)
真田幸隆の真田郷復帰時期のコメントに、乞うご期待です。
川中島合戦に関する楽しい盛り上がり!
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 「甲陽軍艦」に関しては、全てが捏造ではない。一部は真実であると私も認識しております。
 しかし、どの部分が捏造で、どの部分が真実であるかについては慎重な議論の積み重ねが必要であると思っています。

 私を悩ます文献のもう一つが「加沢記」です。こちらも後世の脚色が多いのですが、全てウソであるとは
言い難い点が悩ましい限りです。

 「武田信繁が第4回川中島で戦死しなければ、信玄死後に勝頼と2元政治で長篠合戦はなかった」は、検討に値すべき設定ですね。

 武田マニアの共通渇望は、何故、長篠合戦があのような結果になってしまったかを、知りたくないけど、知りたい・・・でしょう。

 今後も、様々な新説が提起され続けることでしょう。
私の第四回の解釈 ③ラスト 上杉の優勢勝ち・領地化は信玄
こんばんは!「関東管領就任の謙信に太刀を献上」は平山優氏の上・下で読みました。

私が小学5年生の時から、甲陽軍艦の賛否について書いてありました。信玄公は「死を3年隠せ」は遺言通りに葬儀が行れていますから、
甲陽軍艦は全て嘘ではなく、正しいことも多々あります。年代の誤記もありますが・・・
私達でも30年前の今日は何をしたか?と正確に答えられないので、年代の間違いはありますね・・・。

確か1600年代前期に太田三楽の3男だか4男が佐倉藩士で、佐倉藩主に呼ばれ「戦国時代の記録を残したいので、関東の雄のあなたの父が言った事、合戦の内容を教えて欲しい。記録するから。」

TVのない時代、楽しみは会話や噂話、読書・囲碁・将棋ぐらいでしょう(笑)天正壬午期に津久井城兵が昼から酒を飲んでいたと、北条の記録にあります。


今日は偶然平山優氏の「武田信玄」「武田勝頼」を読みました。第4回川中島直後に、関白近衛前久が謙信に一騎討ちの件の手紙を出していますね。やはり上杉軍の被害が少ないことから、

戦の内容は上杉の優勢勝ちですね。信玄公の大ファンの私でも上杉の優勢勝ちです。その後の川中島の領地化は信玄です。

初代犬山城主で成瀬正一(家康より5歳年上)や真田昌幸も第4回川中島に参加していますが、まさか現代でこれほど当日の出来事に論争があるとは考えていないので詳細は記録に残していないですね。
今も犬山城は成瀬家の持ち物(笑)成瀬正一は21歳で第4回川中島に参加どころか、大阪の夏の陣まで参加。凄すぎ!

桶狭間も徳川家康は4キロメートル先にいながら、合戦を知らないのですから・・・。

徳川家康は口数が少なく、関ヶ原のちょうど一年後に側近が「当日も雨でしたね」と言うと、ニヤと笑っただけ・・・。
普通の人は「俺の判断が正解だったから戦に勝てた。あの指図が良かった・・・」など、自慢に走るでしょう(笑)


歴史にタラレバはないですが「弟の豊臣秀長が早死しなければ秀吉の朝鮮出兵はなかった」「武田信繁が第4回川中島で戦死しなければ、信玄死後に勝頼と2元政治で長篠合戦はなかった」
など考えると面白いですね。

真田幸隆の真田郷復帰時期のコメントは、8月下旬の記事にお待ちしております
Re: 私の第四回川中島の解釈 ②
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 真田幸隆さんの真田郷復帰の時期については、いろいろと申し上げたいことが山積しているのですが、今回は第4時川中島合戦を論点に絞りたいと思います。

 長年、研究を続けられていたことに敬意を表します。

 謎の多いこの合戦に新説が提起されたことをご存知でしょうか?

 森田善明氏2011年著作の「戦国10大合戦の大ウソ」に記されています。

 氏の主張されるところの概要を下記にお伝えします。

①上杉謙信は京都に行き、将軍より関東管領への就任を許された。(事実)
②信玄配下にあった北信濃衆は、将軍の権威を信じていた為、大きく動揺した。(推察)

③北信濃衆は、関東管領への就任を認められた謙信のもとへ赴き、お祝いの太刀を献上した。(事実)
献上衆:室賀信俊、祢津信直、保科左近、栗田鶴寿、屋代政国、望月信雅、真田幸隆他・・・

④これらの北信濃衆は、信玄の招集に応じず、武田軍は譜代衆で戦わねばならなかった。(想像)
⑤その結果、武田の戦死者は譜代衆ばかりで、先方衆に死者は出なかった。(想像)
⑥後世、甲陽軍艦を記した人は、その内幕にかんする情報を持っていなかった。
 他の戦では先方衆ばかり死んでいるのに、4次川中島合戦では先方衆が死なず、譜代衆が死んでいる
事実を前に、何か特別な事情が発生していることを推察し、キツツキの戦法を捏造した。(推察)
*時代とともに新たな視点が加わるのは論議活性化にとって良いことだと思いますが、事実は誰にも判らないというもどかしさが付きまといますね。
私の第四回川中島の解釈 ②
倉賀野攻めの本陣→藤岡市役所の西方の大塚

ありがとうございます。落城の時は倉賀野城の対岸かもしれませんね。

第四回川中島の解釈ですが、私は小学5年生から川中島古戦場に自由研究に行き、平山優氏の川中島合戦上・下や小和田氏や川中島合戦の本も全て読んだつもりです。

①きつつき戦法の実施は不明
②川中島(善光寺平)で大規模な合戦があったのは事実
③完全に武田にとって、不測の遭遇戦だった
④その為に、武田信繁や重臣級が合戦の最中に戦死
⑤上杉軍は戦いながら、善光寺に向けて逃げた
⑥上杉軍は100%予測の通りの合戦
⑦武田の感状が「江戸時代の子供の字の練習」手紙しか残っていないが、上杉の感状は本物多い。
⑧信玄・謙信の一騎討ちはなかったが、武田の本陣に切り込んだ上杉の誰かがいた
⑨武田にとっては「ふー」と肩を落とす、負けに近い合戦だった
⑩上杉軍は「さすが謙信様」と軍神になった合戦
⑪あの犬山城の成瀬氏が参加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E6%AD%A3%E4%B8%80_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86)

②は、ここまでです

今度はこちらから失礼致します。私の第四回川中島の解釈①
前回のスレが長くなりましてこちらから失礼致します。

武蔵の五遁さんは私と同じ「信玄・依田信蕃・真田三代」がお好きだから、歴史観が合うのだと思います。信玄なんか腹黒で大嫌いと言われると、何も話ができません(笑)

「信玄の上田原は大敗ではなかった」は気を使って頂きありがとうございます。真冬(上田は乾燥して寒い)に武田の重臣が数多く戦死されていますから、イメージとしては大敗ですね。室賀峠で、戦勝後の村上義清が嬉しくて騒いで、松に兜をかけた話など、室賀峠に行って看板がありました。

「上田原合戦後に真田幸隆を真田郷へ復帰させることに成功」は、そうですか・・・。

平山優氏の川中島の戦い上・下では砥石城攻略以降に真田郷に真田幸隆は帰郷と書いてありましたが、 隆幸(私の本当の名前)←としては嬉しいです。

上田原古戦場に昭和63年GW以降、今年2回目行きました。今年の3月4日晴れの日です。雨宮形部さんのお墓でバッチリ撮ってしまいました。昼なのにシャッター押した時に、ビビッと。

お墓に長い刀が写っていました。感じたのは「室賀さん!あんたの先祖と一緒に上田原で戦ったのに、なかなか墓参り来てくれなかった。昭和63年のGWは近くに来て、板垣信方の墓は来たのに、ここまで来なかった。俺、斬られ死んだ時長い刀で・・・」こんな感じです。昭和63年は大学1年生のGWで車の免許はまだで、電車でしたので屋代源吾さん・小島権兵衛さんのお墓も行けませんでした。

今年5月10日の長野市の大倉城(武田滅亡後の織田軍の大虐殺)は霊気は感じませんでしたが、次の日の早朝の戸隠神社の火之御子社・宝光社では御霊をバッチリ撮ってしまいました。
撮った瞬間に感じるのが不思議・・・。

心○写真につきましては霊障が起きるので、ネットにアップしません・・・。
 
川中島合戦ですが、私の先祖は母方が武田の侍大将の室賀信俊配下で、父方が上杉謙信の新発田氏配下で参加しています。

私の第四回川中島の解釈は・・・。次回に
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