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木部城 ~ 天目山に散る

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成25年7月6日、お城仲間のMさんと木部城に行ってきました。

木部山名アク@
 群馬県高崎市木部町にあります。

木部アク
 群馬県遺跡地図情報サイト「マッピング・ぐんま」に示された城域を赤で囲みました。

  木部町公民館や安楽寺のある木部集落一帯が城域で、かなり広い城であったようです。

196p.jpg
 日本城郭体系によりますと「堀之内氏子衆の石柱」があるあたりが、中心部であったようです。

 中心部の遺構は、宅地化や耕作により破壊され、残存していないようでした。

*木部城は、木部氏の城です。

 木部城は平城であるため、戦時は山城の山名城へ籠る防衛抗争であったようです。

194_20130712092149.jpg
 城域の東、北、西にかけては、堀跡と思われる地形があります。

 写真は西側の堀跡と塁壁と思われる地形です。

*木部範虎は、上杉謙信配下の長野氏に仕えていましたが、1566年、長野氏は滅亡してしまいました。木部範虎は侵攻してきた武田信玄の配下となりました。

195p.jpg
 これも西側の堀跡と塁壁と思われる地形です。

 新しく買ったデジカメの設定ミスで写真が見にくくて申し訳ありません。

*木部範虎は武田軍の東海地方遠征に参加し、軍功を上げました。

 その所領は、木部・阿久津・根古屋・山名・藤岡の五ヶ村に及びました。

171_20130712092828.jpg
 北側の堀の中に建てられたセブンイレブンから、東側の堀跡を撮影しました。右側が城内です。

*1582年、武田勝頼が天目山にて自刃した際、木部範虎は最後まで付き添い、討ち死にしたということです。

169_20130712093023.jpg
 セブンイレブンから西側を撮影しました。左側が城内です。

 幅の広い堀が左側に屈曲しているのが見て取れるでしょうか?

 奥には、詰城である山名城が控えています。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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Comment
倉賀野攻め本陣
室賀様 ご報告です。

 倉賀野攻め本陣に関する情報です。

 倉賀野城落城時のものではなく、第一次倉賀野攻めの時の情報です。

 「北武蔵・西上州の秘史」に、下記の記載があります。

 第一次倉賀野攻めの際、大塚郷の小林監物はいち早く信玄に降伏した。

 信玄は所領安堵を約束する書状を残した。

(小林家文書として現存し、信玄の花押があるそうです)

 倉賀野城すぐ脇の木部氏は未だ信玄に敵対していた時期であり、第一次
倉賀野攻めの本陣は、味方となった小林監物の大塚郷周辺であった可能性
があります。

 藤岡市役所の西方約1キロに下大塚、その南に上大塚の地名があり、倉
賀野にも近い場所です。

> お世話様です。
>
> 私も今年の4月下旬に、山名城と根古屋城に行きました。新潟県かぐらスキーの帰りで、夕方でしたので、日が落ちる前とに急ぎました。
> 武田信玄公信者として、両城とも良かったです。
>
> さて、倉賀野城攻城→落城時の武田信玄公の本陣の場所が分かりません。以前ネットで見つけましたが、そのHPがなくなってしまいました。
>
> この地図で、「共栄橋の下の阿久津町」あたりでしょうか?
> ご存知でしたら、教えて下さい。
Re: 応援ありがとうございます
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 勝頼さんは、やはり若気の至りだったのでしょうね。

 さて、信玄公の上田原ですが後世に伝えられるような大敗ではなかったのではないかと私は理解しています。信玄公は上田原の合戦の際、真田幸隆を真田郷へ復帰させることに成功しておりますので。
 当時、真田郷にあり、村上氏の配下であった横尾氏が没落し、真田郷を去った記録があり、その後、幸隆が同地で策動しています。

 さて、奥平さんの処遇ですが、家康さんも皮肉な処置をされましたよね。新たな関東の広い広い領地の中で、あえて旧武田領である吉井へ、長篠でオビタダシイ死者を出した小幡氏の吉井へ、奥平さんを配置するのですから。吉井町指定史跡仁叟寺には、奥平氏入府後も小幡氏が同寺へ寄進をしていた記録があり、奥平氏は小幡氏を厚く遇していたのではないかと推察いたします。

 私は馬場さん縄張りの城に芸術を感じます。好きですね。諏訪原、大島、牧之島、古宮・・いいですね。

 兵越峠・青崩れ峠へ行かれましたか。スゴイデスネ。私はその周辺しか行っていませんが、それでも厳しい地形が延々と続き、運転をするのが嫌になってしまうくらいでした。武田勢に課された地理上の制約は本当に重いものであったと思います。
応援ありがとうございます
応援ありがとうございます。長篠城は故信玄公が「三河の要と言った」から、高天神城→掛川城でなく、高天神城→長篠城だったとか。

掛川城は堅城で今川氏真がこもったとき、家康が落城するまで半年かかっていますね。武田はなぜかずっと掛川城だけは避けていますね。

勝頼は長篠城攻囲の前に豊橋の吉田城を軽く攻めたりしていますから、勝頼はどうしても信長・家康連合軍をおびき出して、直接対決したかったのでしょうね。

勝頼は毛利元就が1555年10月の厳島合戦で大勝して、中国の大勢力になったのを絶対知っていたでしょうから・・・。長篠合戦は1575年。

上杉謙信が長篠合戦の詳細を聞いて「ほう」と言ったそうだから、上杉謙信はその時から「夜戦」を考え、手取川合戦は織田軍に勝ったのでしょう。



信長も「桶狭間以降は負けない戦」、信玄公も「上田原・砥石崩れ以降は負けない戦」に徹しています。勝頼は「1回の若気の至りで、お国滅ぼし・・・」

家康が武田滅亡後、すぐの勝頼のお墓参りで「お若いから致し方ない」と言ったそう。勝頼の父の信玄公にボロ負けしていますから・・・。

信玄公も三方ヶ原の夜は、家康は「若いから致し方ない」と思ったでしょう(笑)


奥平信昌の子の奥平家昌のウィキに載っていますが、「七族五老」は長篠の戦いの勝利後、陪臣でありながら家康から直々に労われた上に、彼らの子々孫々に至るまで厚遇を約束された御墨付きを拝領したという重臣達。

武田ファンにとっては、悔しいです・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E6%98%8C


諏訪原城に思い入れがありますか?これぞ馬場信春設計の城で私も好きです。牧ノ島城も。

童門冬二氏の「父信玄が名将の名を欲しいままにして、それを棺桶に貼り付けたままあの世に行ってしまった」

当たりすぎていて痛いです。世の中当たりすぎは、何も反論出来ない、とはこのことです(笑)今も、山梨県内では信玄公の悪口言えない雰囲気があるそうで(笑)

なぜか、私は尊敬している人には公つけます(笑)信玄公最後の出陣の道の兵越峠・青崩れ峠は3年前秋に行った時、涙道だと思いました。
長篠私見
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 長篠に関する論文を書かれていたのですね。素晴らしい。

 私も合戦の地を見て回り色々と考えさせられました。

 信長の本陣が非常に離れた場所にあったこと、しかも、本格的な築城が施されていたことから、信長は攻められたら守ること、できれば本陣を攻められる前に自分だけは逃げれるように考えていたのではないかと感じました。

 信長は家康の顔を立て、武田に圧力をかけることを主眼に置き、要害地形に築城し、守りに徹することで、武田が撤収することを期待していた。別動隊の奇襲も、撤退を促すためのものだったと感じました。
 おっしゃる通り、武田が我攻めを仕掛けてきて自滅したのは、望外の幸運と感じていたと推察いたします。

 また、その前の戦略においても、高天神ではなく掛川を奪取しておくべきであったと思います。掛川を保持していれば、諏訪原はあれほどあっけなく落ちることは無かったでしょう。諏訪原の陥落は本当に痛かったと思います。推察ですが、武田は今川水軍衆を配下に収め、水軍衆の発言力が高まっていたことと思われます。高天神は往時、海の入り江が近くまで食い込んでおり、水軍衆にとっては押さえておきたい拠点ではなかったかと思います。
ありがとうございます
倉賀野城攻めの本陣の件は、慌てないで結構ですよ。

倉賀野城・根古屋城・平井城・御嶽城も上野・武蔵の境目で、武蔵唯一の武田信玄公の城の御嶽城(本庄市)というのも、現代の発想ですね。

私は、大学時代歴史研究会に所属して1期生の時の論文が「長篠合戦は鉄砲で負けたのではない」

2期生の時の論文が「武田信玄公は何故天下がとれなかったか?」でした。

長篠合戦は、私も45歳になり、落ち着いて考えたら、やっと結論が出て、信長が次の日の朝にさっさと岐阜に帰ったことを考えても「武田軍の3倍の兵力で白兵戦でも負けない。深い堀を掘り、土塁を設け巨大な陣城を建造・大量の鉄砲で斬り合いに持ち込まない」

武田には歴戦の家臣がいるから、まさか攻めてこないだろう→えっ!攻めてきたラッキー→信長の圧勝 

信長にとっては「一丁上がり」の非常に大変に楽勝の合戦で、武田にとっては滅亡の始まりの合戦でした。

長篠籠城の奥平信昌の7族5老は悔しいですね!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E6%98%8C

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%97%A9
7族5老は家康の天下取りのキーポイントとなった為、子孫末代まで徳川家の中で優遇だそう!!武田ファンからすれば「この野郎です」

ただ、長篠攻城時に「この合戦は勝てない」と判断し甲斐に撤退しても、織田軍の毛利攻めの毛利のように結局ビリ貧でしょう・・・。信玄公のように、騎馬隊が存分に使える三方ヶ原を選んで、合戦を有利にする腹黒さもないし・・・。

私としては掛川城をゆっくり攻めて、浜松城に圧力をかけ、救援に来た信長・家康連合軍を掛川あたりで迎え撃ち、武田有利な状況で合戦すべきと思いましたが、結果論です。

とは言え先祖の室賀は上田原合戦と砥石崩れでは村上方で信玄公を負かしています。信玄様すみません・・・。

室賀信俊が長篠城にこもって、火をつけられたので勝頼の指示で長篠城を捨てた説もありますね(笑)

昭和62年の大学浪人生の時のお盆に信玄公のお墓参りを初めてしました。「志ならざれば、再びこの地を踏まず」と誓いました。

恵林寺の宝物館で信玄公の100回忌(1673年)に三枝・保科など数百人が来たと聞き、信玄公の人望はすごいと思いました。

最後のオチはこれで(笑)







Re: 分かり次第教えて下さい
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 山名城と根小屋城に行けれましたか?

 二つの城は至近距離にありながら、築城の思想が全く異なっていて面白いですね。

 さて、倉賀野城攻めの本陣の件ですね。

 すぐに思い浮かぶのは、甲陽軍艦の記載ですが、その信用度は疑問視されています。

 私なりに調べてみたいと思います。

 心に刺さるものがありましたら、ご報告申し上げます。

                                 武蔵の五遁
> お世話様です。
>
> 私も今年の4月下旬に、山名城と根古屋城に行きました。新潟県かぐらスキーの帰りで、夕方でしたので、日が落ちる前とに急ぎました。
> 武田信玄公信者として、両城とも良かったです。
>
> さて、倉賀野城攻城→落城時の武田信玄公の本陣の場所が分かりません。以前ネットで見つけましたが、そのHPがなくなってしまいました。
>
> この地図で、「共栄橋の下の阿久津町」あたりでしょうか?
> ご存知でしたら、教えて下さい。
分かり次第教えて下さい
お世話様です。

私も今年の4月下旬に、山名城と根古屋城に行きました。新潟県かぐらスキーの帰りで、夕方でしたので、日が落ちる前とに急ぎました。
武田信玄公信者として、両城とも良かったです。

さて、倉賀野城攻城→落城時の武田信玄公の本陣の場所が分かりません。以前ネットで見つけましたが、そのHPがなくなってしまいました。

この地図で、「共栄橋の下の阿久津町」あたりでしょうか?
ご存知でしたら、教えて下さい。
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