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沼田城(3) ~ 豊臣秀吉の裁定

 沼田城の第3話です。

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 西櫓台西側の石垣です。

*滝川一益から沼田城を受け取ると、真田昌幸は北条氏直に従います。

 北条氏直は、信濃・甲斐の領有をめぐり、徳川家康と対立します。

 徳川家康は、戦局を有利に展開させるため、真田昌幸へ「領地を沢山あげるから、徳川と一緒にやりましょう」と持ちかけてきたため、真田昌幸はこれに応じました。

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 西櫓台の北側から、櫓台越しに鐘楼を撮影しました。

*真田昌幸は北条の補給路を遮断したため、北条軍は甲斐での長陣が不可能となり徳川と和睦することになりました。

 その条件は、「甲斐・信濃は徳川の領有。上野は北条の領有。」というものでした。

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 西櫓台から堀越しに「捨て郭」を撮影しました。

*徳川家康は、真田昌幸へ命じました。「悪いけど、上野の吾妻領と沼田領を北条にあげちゃって」

 真田昌幸は、「領地を沢山くれるって言うから味方したのに、俺の活躍で有利に和睦できたのに、何で俺が領地を半分にされないといけないわけ?」と、激怒し上杉景勝の配下へと転身。徳川、北条と対立します。

 徳川は信濃上田城へ向け、北条は上野沼田城へ向け、大軍を発します。

沼田城
 位置関係はこの図でご確認ください。

*1585年、8月2日、真田昌幸は上田城にて徳川軍を撃破します。有名な第一次上田合戦です。

 上野では、8月24日、北条軍が津久田に進出、迎え撃った真田勢を撃破すると、沼田城南方約3キロの「森下城」をなで斬りとし、沼田城を包囲しました。

 しかし、沼田城代矢沢頼綱は守りを固め、北条軍を寄せ付けませんでした。

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 捨て郭です。真田昌幸の頃はここが本郭であったことと思われます。

*翌年、徳川家康は秀吉に屈服し、北条氏直にも秀吉に従うよう勧めます。

 北条氏直は秀吉に訴えました「徳川と和睦した際、上野の吾妻領と沼田領は北条の領有であると決めたのに、真田が居直っています。どうにかして下さい。」

 秀吉は、「吾妻領は真田のまま、沼田領の3分の1、名胡桃城は真田のまま。沼田領の3分の2、沼田城は北条領とする。」という裁定を下しました。

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 捨て郭から見た 「名胡桃城」 方面です。 「富士浅間の砦」 が、名胡桃城の物見としての役割を担っていたようです。

*北条氏直は、猪俣邦憲を沼田城代に据えました。

 北条氏は、吾妻領の全部、沼田領の全部を欲していたのに、実際に得ることが出来たのは希望の半分にも満たないものでした。

 1589年7月、猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とすという事件が発生しました。

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 捨て郭から侍屋敷の塁壁を撮影しました。間には幅の広い堀が残存しています。

*豊臣秀吉は、北条の裁定違反に激怒し、北条征伐の軍を催し、翌年、北条氏は没落。沼田城は真田昌幸の長男真田信幸の居城となりました。

 信幸の時代に、本丸が現在の場所に移され、天守台、西櫓台等が整備されたと推察されています。

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 捨て郭北方の塁壁です。壮大ですね。

*関ヶ原の戦いの前夜、真田昌幸と真田信幸は、「徳川家康の会津攻め」に従軍して下野にいました。

 そこに石田三成挙兵の報が届きます。

 真田昌幸は、石田三成の西軍につくことにしました。

 真田信幸は、徳川家康の東軍につくことにしました。

 真田昌幸が、上田へ戻る際、沼田城に寄ったという伝説があります。

 沼田城を守っていたのは真田信幸の妻、徳川四天皇本多忠勝の娘は、城門を見おろす櫓に武装した姿で現れ、「たとえ舅と言えども、敵方となったからには、城に入れるわけにはいきません」と追い返したとのことです。

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 捨て郭から見た、谷川岳方面の景色でお別れです。

*1681年、沼田藩は失政の咎めを受け廃藩となり、沼田城は翌年破却されたということです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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