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沼田城(2) ~ 滝川儀太夫の男気

 沼田城の第2話です。

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 本丸は花壇が整備され、市民の憩いの場となっています。

*1582年、武田家が滅亡すると、真田昌幸は織田信長の配下となりました。

 上州には織田家の重臣滝川一益が派遣されました。真田昌幸は屈服の証として、沼田城を滝川一益へ差しだしました。

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 鐘楼を復元した経緯が解説されています。

*滝川一益は、親族衆の滝川儀太夫を沼田城代に据えました。

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 鐘楼です。

*やがて本能寺の変が起こりました。織田信長の突然の死により、織田家は大混乱となります。

 藤田信吉は、滝川儀太夫へ持ちかけます。

「こうなっては貴殿も、上州を持ちこたえることは出来ますまい。上方へ帰ることとなりましょう。沼田城は貴殿にとってはもうどうでも良い城であろう。私は以前沼田城代でありました。沼田城を私に戻してくだされ.」

沼田城
 鐘楼の場所はこの図面でご確認ください。

*滝川儀太夫は自らの尻に火がついた状態でありながら、男気を見せ、筋を通そうとしました。

「信吉殿の言われることもわかる。しかし、我らは真田昌幸殿から沼田城を受け取ったのじゃ。申し訳ないが、返す先は真田殿とさせていただく。」

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 沼田城に関する年表も掲示されています。しかし、こと戦国期に関しては、私のレポートの方が詳しいですね。

 自画自賛、お恥ずかしい限りで・・・

*藤田信吉は怒りに震え、沼田城を退去しました。信吉は、上杉景勝より兵士を借り、沼田地衆の一部もかき集め、5千の兵力を動員することに成功しました。

 藤田信吉は、沼田城に攻めよせ、水郭を奪うなど攻勢を強めました。しかし、滝川一益が2万の兵を率いて沼田に向かっているとの報を受け、越後へ去って行きました。
(平山優著「天正壬午の乱」より引用。セリフ部分は脚色)

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 真田氏時代の沼田城の絵も掲示されています。

*滝川儀太夫と滝川一益は、筋を通し、沼田城を真田昌幸へ返却すると、上方へ撤退していきました。

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 西櫓台の残存石垣です。沼田城というとここの写真が示されるケースが多いですね。

「沼田城第3話・豊臣秀吉の裁定」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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Comment
沼田への固執
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。

 北条も、上杉も、武田も、真田も、沼田に固執しましたね。

 沼田は関東、会津、越後、信州、各方面とつながっています
から、流通の中継拠点になっていたんでしょうね。

 そして、経済的にも栄えていたんでしょうね。

 先日、南会津の久川城へ行った際、城下をとおる道が、今も
「沼田街道」と呼ばれていることに驚きを感じました。

 昨日は東京都議会選挙の応援で駆けまわっておりました。

 今朝はのどが痛いです。
想像の世界ですが
戦国時代の船運は日本海沿岸の港から港へと
物資が流れ、港を持つ、安東氏や上杉氏は
莫大な利益を上げていたようです。
関東の交易品はおそらく沼田を通り
三国峠を越えて越後の港に流れていたと
推測できますので沼田は関東の物資が集約する、
経済の一大拠点だったのではと推測されますよね。
もしそうだったとすると、
小大名の真田氏がかなりの軍事力を持っていたことや、北条氏が沼田に固執した理由も
納得できますよねえ。
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