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沼田城(1) ~ 藤田信吉在城

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成25年4月7日、お城仲間のMさんと沼田城に行ってきました。

三光院アク

 群馬県沼田市西倉内町にあります。沼田公園として整備されほとんどの地図に掲載されています。

沼田城
 沼田城は破壊が著しく、現地を散策している間、自分が城のどの部分にいるのか理解できませんでした。

 そこで、帰宅してから、現状に古図面を落とし込んでみました。天主台の位置と、残存本丸水掘の位置を基準にしてあてはめました。

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 駐車場から見たグラウンドです。グラウンドの一部が二の丸であったようですが、「グラウンド = 二の丸」ではありません。また、写真奥に土の盛り上がりが見えますが、古図面の縄張りと合致しないため、グラウンドを整地した際の残土であり、残存土塁ではないようです。

*沼田城は、在地衆沼田顕泰が1532年に築き、本拠を幕岩城から移したということです。

 上杉謙信が越後から進出すると、謙信による城代支配を受けるようになりました。

003_20130516153514.jpg
 テニスコートの窪んでいる部分は「残存本丸水掘」とつながっており、往時の堀の名残であると思われます。

*謙信が亡くなると、北条氏が沼田城を制圧しました。

 北条(藤田)氏邦配下であった用土重連が沼田城代に任じられ、直接北条本家の差配を受けることとなりました。北条(藤田)氏邦は自らが沼田城を差配できると思っていたため、用土重連を暗殺してしまいました。

 北条(藤田)氏邦はこれで沼田は自分のものと思っていましたが・・・

006_20130516153754.jpg
 残存水掘の表示です。

*暗殺の経緯を知らない北条本家は、用土重連の弟、用土信吉を沼田城代に据えました。

 北条(藤田)氏邦は、用土信吉を恨み、用土信吉は身の危険を感じるようになりました。

 その頃、上杉景勝は「上州の旧上杉領は武田の切り取り自由」という条件で、武田勝頼と和睦を結びました。

 武田勝頼は、真田昌幸に沼田城攻略を命じます。

 真田昌幸は、沼田城の対岸に名胡桃城を構築し、小川可遊斎を味方に引き入れると、沼田城の支城を次々と攻略したうえで、用土信吉へ誘いの手を伸ばします。
 
028_20130516153953.jpg
 天主台址の表示です。廃城の際、崩されて低くなってしまっています。

*用土信吉は誘いに乗り、武田へと寝返りました。

 関東管領重臣であった名家藤田家を北条に乗っ取られ、自らは用土を名乗らねばならぬ屈辱の上、兄を暗殺されたのですから、もう北条家の下ではやっていけないと感じたのでしょう。

 また、武田家の示した条件が信吉の心を動かす破格の条件であったようです。

 信吉は妻子と共に沼田城近くの沼須城に住み、沼須城から、沼田城に出勤したとのことです。信吉が武田配下となったのであれば、妻子は甲斐へ送られるはずです。そうでなかったということは、藤田信吉は武田と同盟関係の様な位置づけを許されたことになります。この条件は信吉のプライドを満たすに十分であったことでしょう。

 用土信吉は北条家を離れたことを契機に、藤田信吉と名乗りました。

 藤田信吉、1回目の主換えです。彼はその後、上杉景勝、徳川家康と主を変えていくこととなります。

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 天主台の近くには古図面が掲示されています。

 「沼田城第2話・滝川儀太夫の男気」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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