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三沢小屋(5) ~ 乱の終結

 三沢小屋の最終話です。

三沢図
 本郭の南側は、「南側からの敵兵に備える」というよりは、「本郭から南へ撤退するための遅滞空間」であると思われます。

 しかし、私どもは初めに三沢小屋の南側の尾根に出てしまい、南から三沢小屋へ向かったので、写真の方向が南からとなってしまっており、南から説明させて頂きます。

DSCF1727.jpg
 Eの保塁です。

*大軍で若神子に布陣した北条軍ですが、小勢の徳川軍を相手に苦戦を強いられます。徳川家康が「戦闘力が高く、甲斐の地理を知り尽くした武田遺臣」を配下に収めていたからです。

DSCF1728.jpg
 Eの保塁から、Dへの間は、土橋状になっています。

*秩父から甲斐に侵攻した北条勢は撤退を余儀なくされました。

 御坂峠から侵攻した北条勢は黒駒合戦で大敗を喫しました。

 若神子と、新府の間の戦闘でも、徳川が勝利を続け、獅子吼城等北条方の要害を次々と奪取しました。

DSCF1730.jpg
 D保塁の南側、東斜面に刻まれている竪掘です。

*一方、真田昌幸は北条の反撃に備えて上州の警備を強化し終えると、10月19日までに、北条家へ手切れを宣告し、北条方の望月城を攻略しました。

DSCF1732.jpg
 D保塁から、C保塁を撮影しました。二つの保塁を隔てるのが右側に食い込む竪掘です。

*甲斐から徳川の援軍が南佐久へはいり、依田信蕃と合流しました。

 10月26日には春日城を回復するなど、戦況は一変しました。

DSCF1733.jpg
 その竪掘を見下ろしました。

*依田信蕃は、真田昌幸と共に、碓氷峠を封鎖し、北条の補給路を断ちました。

DSCF1731.jpg
 C保塁です。奥に本郭が見えます。

*4万ともいわれる北条の軍勢は、補給路を断たれることにより、大軍であることが逆に足かせとなってしまったのでした。

 また、北条の本国である関東では、佐竹氏が活動を活性化させており、帰国して対処する必要がありました。

DSCF1734.jpg
 本郭です。タブレット搭載の簡易GPSでは標高約1150メートルでした。

*北条氏直は、徳川家康へ和議を持ちかけました。

DSCF1735.jpg
 本郭から見た、北側に付属する小郭です。

*10月29日に条件が整い、和議が成立しました。

 甲斐信濃は徳川家の切り取り次第、上野は北条家の領有であることを確認する。

 婚姻を結び、両家は同盟関係となるというものでした。

 依田信蕃の、三沢小屋での籠城戦が徳川家康の飛躍につながったのでした。

三沢アク2

 写真を撮影するのを忘れてしまったのですが、三沢小屋の南方、標高約1220メートル地点には、削平はされていないものの、大勢が寝泊まりできるような広い、窪地の様な空間がありました。

 婦女子等非戦闘要員の収容区域ではないかと想像しました。

*さて、冒頭にも述べましたが、三沢小屋の場所については諸説あります。

1 春日城よりも山奥にある。
2 蓼科山の懐にある。
3 険阻な地形である

 これ以上の情報はありません。

 このレポートの要害はその3条件に符合しますが、三沢小屋ではない可能性もあります。このレポートを機に、論議が深まればと思います。

DSCF1741.jpg
 西郭から見た、春日集落方面の景色でお別れです。   

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「長野の城」
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Comment
ありがとうございます。
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。

 宮坂先生の情報は同行のMさんがお持ちでした。

 位置の絞り込みに役立たせて頂きました。

 しかし、先生は作成した図面を地図に落とし込む際に誤認をされた
ようです。先生の情報で逆に右往左往してしまう場面もありました。

 また、私はスケッチをする際には、先生の図面を見ないようにして
います。先入観を持ってしまうと、見損じがあると思っておりますの
で。

 あくまでも推定地ですので、妄想を広げて楽しく論議が広がれば、
嬉しいことではないかと思っています。
素晴らしいですねえ
宮坂先生がお調べになっていたようですが、
調査から発見に到るまでの過程が
素晴らしいと思いました。
最近思うのですが、山城の調査も
趣味の世界ですから楽しめたら
OKなんじゃないでしょうか。
今回のレポートはとても楽しめました。
Re: 除堤、除堀、除柵について
妙義の毛虫様 御来訪ありがとうございます。

 勉強になります。段郭の塁壁と思ったのは実は除堤であったという可能性も少なくないということですね。農作物を守る努力は昔も今も大変ですね。今は電線を張って感電させてやろう!というのを見かけますね。これを見て踏査を断念したことが何度かあります。

 さて、柳沢城は岩櫃温泉背後の山ですよね。昔に登りました。郷原、岩下、柳沢は選地、縄張りとも同時期の同勢力による築城の匂いがしますね。

 確かに、柳沢城の方が造りが古いので、先にあったと考えるのが妥当だと思います。
Re: ありがとう御座いました
室賀様 御来訪ありがとうございます。

 ねぎらいのお言葉かたじけない。

 尾根を一本一本潰していく作業は体力的にも精神的にも厳しかったです。

 この先にあるのでは?という想いで、気がついたら標高1400メートル
に達していた時もありました。

 こうしてコメントを頂けると次も頑張ろうと思えます。

 さて、歴史研究会に所属されていたのですか。お詳しいはずです。

 「天正壬午」と「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」は、歴史研究を新
たなステージへ押し進めたのではないかと感じています。

 蓼科山の裾は広いので、踏査すればまだまだ発見されるかも知れません。
除堤、除堀、除柵について
除堤はいろいろな呼び方がありますが、江戸時代の農民が猪や鹿除けに築いたもので長野以西のものは概ね掘切を伴います。千葉県にも石垣でできた除堤がある様です。山頂を取り巻く石積みも信仰のものなのか城跡なのか猪除けなのか明治後半から昭和に掛けて大分論議されたみたいです。木で作ったものを除柵と云います。除堤の上部を平にし竹槍で猪を突いたりしたみたいです。山城も色々な方向から見ると、結構面白いですね。前回の柳沢城は岩櫃城の東の観音山の所です。岩櫃城が先にあれば出城となりますが、無ければ岩下城、郷原城、柳沢城で戦国初期やそれ以前では充分かも知れませんね。
ありがとう御座いました
依田信蕃の三澤小屋推定地の、困難な探索(探検)の末、踏破おめでとうございます。私も正確な三澤小屋がネットに出ていなく、質問しようと思っていたところ、アップされたので楽しみに
読ませていただきました。

私は大学時代に歴史研究会(今は地元の地方史研究会)に所属し、武田信玄公の研究をしていたので、信州の山城は大好きです。

平山優氏の「天正壬午の乱」を読むまで三澤小屋は知らなかったです。「天正壬午の乱」を読まれたようで、禁断の本(パンドラの箱)を入手しましたね(笑)


ここは時系列で考えないと混乱します。

まず、氏康亡きあとの北条氏政は、氏康の「天下を狙うな!」の遺言通りバクチを打たず、慎重です。
ですからネットで北条氏政は「何か中途半端」という、評価が多いです。氏政の沼田城攻めの失敗など・・・。

北条氏康は河越夜戦で大勝。第2回国府台合戦(市川市)は近くの茨城県土浦に上杉謙信軍がいたからこそ、急行・強行攻めをして大勝しました。勿論、氏康が現場指揮を取りました。

三舟山合戦(千葉県富津市)は氏康は現場指揮を取らず、氏政に任せたら大敗・・・。やはり息子達はダメだ!「天下を絶対狙うな!」と悟り、遺言し4年後死去。

天正壬午の乱は所詮、名将武田信玄公や北条氏康公亡きあとの信濃の戦いですから・・・。

時系列
・本能寺の変が6月2日
・6月下旬に徳川軍が甲府占領
・7月7・8日神流川の戦い
・7月9日家康が甲府到着
・7月18日徳川軍が諏訪到着
・7月中旬から9月は北条が佐久の城などを、うわべだけ掌握
・9月28日真田昌幸が徳川方になり、その後、こっそり三澤小屋に兵糧を運ぶ
・10月19日までに真田昌幸が、北条氏政に「徳川方に寝返ったから!」と通告

ここから反転

10月26日までに真田昌幸・依田信蕃らにより、春日城陥落 

10月29日 徳川・北条妥結発表

11月7日 前山城・野沢城陥落 →佐久の城は雪崩現象のように徳川方へ

三澤小屋は7月に築城か砦だったものを改修(地元の領主だから、農民まで小屋作りにたくさん参加したと思われる)、三澤小屋は10月末にはお役目御免

徳川家康は真田昌幸に、「群馬の箕輪城周辺の土地・甲斐の一部の土地・諏訪を与える」って約束、守っていません。関ヶ原の時も空手形乱発だし(笑)

三澤小屋は、本拠の春日城と蓼科山山頂のラインにあるのは確実だと思います。とにかく4ヶ月弱だけ利用された小屋というのが大事です。

蓼科山山頂から尾根沿いに春日城まで登山用の重装備(ザイル使用)で降りてみたら、ヒントがあるかもです。私も日本百名山を半分登り、トータルでは色々な山を100は登りましたが、
10年前の話で、いつか登山熱が復活したら、考えたいです。私は北海道の利尻山1721mの標高差(日帰り)が最高です。海に登山クツの先を付けて朝4時に出発、夕方5時帰還でした。メタボ(78kg)の今はとても出来ません(笑)

ではでは。
空想論議
妙義の毛虫様 御来訪ありがとうございます。

 素人の空想やら妄想から、何かが生まれることもあるでしょうし、何も無くとも罪にはなりませんものね。少なくとも論議を楽しめます。

 さて、北条がいかに大軍であろうと、狭い谷が延々と続く中を進軍し、細尾根に取りつく時点で、大軍の利を生かせる状態では無くなっていると感じました。また、北側の断絶感はすさまじいものがあります。私は登るのを断念して迂回しました。北条が1日で落とそうと、北側から我攻めしても、落とせないと感じました。一方、北条が腰を据えて、この要害の背後、南側へ包囲網を広げた場合は闇にまぎれて霧散するしかないと思います。

 岩櫃城の件は同感です。岩櫃城は板鼻城と構造が似ているので、板鼻城と同時期に、同じ武田により築かれたのではと感じています。柳沢城はブログを始める前に踏査しました。だのでレポートアップはしていませんが、市街地方向に広い段郭があったのを記憶しています。武田が攻めたのは岩下城と思っていましたが、柳沢城も候補に入って来ると、また、論議に幅が出ますね。もう一度踏査して、今度はレポートアップしようと思います。

 除堤のお話は初めて伺いました。まだまだ奥が深いですね。
Re: 行かれましたか小倉城
らんまる様 御来訪ありがとうございます。

 小倉城兼三沢小屋推定地に行って参りました!

 いやはや、到達までにどれだけの尾根を無駄歩きしたことか・・・

 到達した後は笑い話になりますが、無駄歩きの最中は・・・

 もうすぐ到達するはずだ! 何故? 何故また到達しない?

 あと、100メートル先? 1キロ先? 隣の尾根? と心乱れ・

 神様の情報も一応把握しておりましたが・・・

 神様の情報を信じたが為に、遠ざかる場面もありました。

 神様も御高齢で・・・

 標高や縄張りで幾つかの誤りを紙面発表されていたようです。

 さて、私が全面踏査をしたいと思っていた塩田城の踏査をされたようですね。

 私は、7年ほど前に他に城から南の尾根に取りつき、最高部まで行って参りま
したが、西と東の保塁は未踏査でした。

 先を越されてしまいましたね。レポート。楽しみに拝見させて頂きます。
いいですね
三沢小屋城について同好の人たちの中での論議は大いに結構だと思います。少なくとも他人に迷惑を掛けないで済みますからね。全くの素人の空想ですが、もし、行かれた所が三沢小屋城だとして、疑問点があります。全くの個人感想ですが、北条勢は北と南を小勢力で固めれば攻める必要のない城みたいですがどうでしょうかね。コ此処を拠点としてはゲリラ戦は不可能みたいですが?
短期間で自落しそうです。小倉城の方が拠点としては向いていそうですね。
別件ですが、同じ様な論議を岩櫃城で行うのも面白いかもしれませんね。100年も後世の加沢記に出てきた岩櫃城は現在の城跡と思われますが、武田侵攻前には無かったと私は思っています。むしろ柳沢城(岩鼓の砦)は結構広い城で、ここか岩下城か他か。武田が攻めた城はどこでしょうね。いづれにせよ歴史には正しい、正しくないはなく、判らないのが本当でしょうね。五遁さんは除堤はご存じと思いますが、尾根上部に畑を作ると全く城跡となります。竹林の根切も立派な掘切と土塁になります。オタク同士の世界では自由に想像をふくらませられます。
行かれましたか小倉城
三沢小屋探訪は小生も狙ってましたが、ここという特定も出来ずに春日集落の奥地を彷徨ってました。貴殿の攻略された小倉城は春日城の詰め城の一つであり、宮坂氏も依田信蕃が撤退戦で利用しただろうと推定されています。
この砦には大人が2名ほど座れる岩穴があったみたいですがどうだったでしょうか。
依田信番フリークとしては是非行ってみたい場所です。ご紹介ありがとうございました。
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