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三沢小屋(2) ~ 寝返る佐久衆

 三沢小屋の第2話です。

DSCF1763.jpg
 西下から二郭を見上げた写真です。巨岩に守られた急峻な地形であることが伝わるでしょうか。

*依田信蕃(よだのぶしげ)は、佐久春日郷の在地領主で、武田家に仕えていました。

 武田信玄の代には武蔵御嶽城、勝頼の代には遠河二股城など、最前線の城を任せられる信認の厚い武将でした。

三沢図
 北の尾根筋から、Aを目指すのは、攻城兵の損害が大きすぎるので、攻城側は東か、西へ迂回することとなります。

 西側を迂回すると、西郭と二郭からの挟撃にあうこととなります。

*織田・徳川連合軍が武田領へ侵攻し、周囲の城がコトゴトク落去する中、依田信蕃は駿河田中城を守り続けました。

 徳川家康は、穴山梅雪をして城兵の安全を保証する開城勧告をさせ、依田信蕃はようやく城を明け渡しました。

DSCF1760.jpg
 二郭の岩の下まで登り、北側を撮影しました。岩下を迂回するのも容易ではありません。

*徳川家康は、依田信蕃に「徳川家へ仕えるよう」勧めましたが、依田信藩は「主君勝頼の安否がわからぬうちは仕えられぬ」と断り、旧領へ帰還しました。3月14日のこととされています。

DSCF1762.jpg
 「西郭の側面とその下の尾根筋」も岩となっていて、登るのは難しそうです。

 ここで視点を変え、攻城兵が意地で北側からの尾根を登った場合の解説をしてみます。

*その後、織田信長が武田遺臣をことごとく誅殺する姿勢を見せたため、依田信蕃は徳川家康の勧めに従い遠河へ潜伏しました。

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 北尾根の突端、Aから二段下がった場所にいて、南側の岩壁を見上げました。

*武田家崩壊から僅か3カ月後の1582年6月2日、本能寺の変に織田信長が倒れると、甲斐信濃は混乱し、徳川家康は織田家の了承のもと、事態の収拾に乗り出します。

DSCF1743.jpg
 北側を見下ろしました。足元がすくみます。

*依田記によりますと、徳川家康は依田信蕃へ書簡を送り、武田遺臣の糾合を命じました。

 依田信蕃は6月12日に甲斐へ入りました。そして中道往還の迦葉坂で自らの旗「鐘ノ旗」を掲げると、横田甚五郎伊松(元高天神城軍監)ら武田遺臣が、続々と集結し、その数は3千に達したということです。

(依田記は他の資料との整合性に難がある点もあり、信蕃の帰国の経緯や日付については今後の研究が待たれます。)

DSCF1744.jpg
 突端から、西側に続く、細い通路です。イメージ図に描いてあります。

*依田信蕃はその人数を率いて佐久に入り、滝川一益から小諸城を受け取ると、佐久とその周辺の豪族へ徳川方となるよう勧誘しました。

 7月はじめには、根津氏、平尾氏、森山氏が帰属を明らかにしました。

DSCF1746.jpg
 通路を南に進み、A郭へ向かっています。

*しかし、7月12日に北条氏直が大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃へ侵攻すると事態は一変しました。

 佐久衆は北条へ寝返り、依田信蕃に刃を向けたのでした。

DSCF1748.jpg
 A郭への入り口は、半枡形の様にくぼんでおり、各方向からの攻撃が可能となっています。

 「三沢小屋第3話・牛馬を潰して」へ続く・・・  

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